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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
心に残る言葉

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私達の内面にある欲望や感情は形もなく、目には見えないものです。

表現された言葉によって、感じ取ったり洞察したりします。

言葉の出会いによって、その人の人生が変わることもあります。

 

一つは、

 

〈女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるはなおうるわし〉

 

これは、アメリカの詩人ホイットマンの詩です。

自由な形式で自然や民衆の生活などを歌い、アメリカ民主主義の代表詩人と云われています。(1819-1892)

若い女性は美しいが、老いたる女性は更に美しいという詩です。

若い女性が美しいのは、天然自然の美。

うるわしを漢字に当てると「麗しい」となるでしょう。

それに対して、老いたるは なおうるわし のうるわしは「美し」が相応しいと言われています。

麗しは生まれついての瑞瑞しい美しさ、老いたるはの美しさは自己丹誠によって智慧や感性が豊かになり、その豊かさから来る内面的な美しさではないでしょうか。

若い時には、若さならではの花がありますが、年老いてから老いの花を感じる事は中々難しいことであります。

 

歌人の斎藤史の歌に

 

〈ぐじやぐじやのおじやなん ( * ) を朝餉とし何で残生が美しかろう〉

                   ― 『風翩翻』 (* 原文のまま

 

という歌がありますが、年を取ると視力や聴覚が落ちてゆくし、皺が出来たり、物忘れが多くなり体形も崩れていきます。

しかし外見は美しくはないが奥行きのある素朴な味わいがこの歌から感じ取れます。

たった一度きりの人生を生きていく上で、愚直であっても何か一道に向かって修養を続けていく人は、美しい老いの花へ近づいているのではないでしょうか。

それは日常の生活の中で培われるもので、純粋に感動し、感激し、そして今日より明日と希望を持って生きる人であります。

 

人は皆、明日のことはわからず?死?と背中合わせに生きているのが現実であり、だからこそ目標をもって一日一日を精一杯生きて行きたいものです。

二つ目は 貪瞋痴 ( とんじんち ) ですがこれは仏教語であります。

私たち人間に、根本的に備わっている三つの煩悩で、理想に向かって生きようとする心身を害する三毒とも言われています。

私は人間禅に入門して50年ほどになりますが、この言葉に出会ったのは入門してまだ西も東も分からない頃でした。

先師の如々庵老師のご提唱を聴聞し、私達の心身がこの貪瞋癡の三毒に侵されていることに気づき大きなショックを受けた事を思い出しています。

 

( とん ) とはむさぼりの事。

好ましい対象に対する強い執着、激しい欲求、またそれを起こさせる心理作用の事です。

貪欲とか貪愛なども同様の意義をもちます。

人間の欲望というものは、放っておくと切りのないもの。

例えば、お金や財産は無いよりは有る方がいいと思いますが足る事を知らないで、もっともっとと執着することは身の毒になるということです。

「財産を多く持っていない人が貧しいのではなく、多く欲しがる人が貧しい」という筬言もあります。

貪愛も自分の心情に合う好ましい対象だからといって強く執着したり、激しい欲望やむさぼりの心を起こすと人身を迷わせることになると説かれています。

三毒の中でもこの貪愛は特に厄介なもので「往生のさはりの中に貪愛に過ぎたるはなし」と言われています。

往生とは死後のことではなく、日常を心安らかに生きることです。

貪欲に縛られてもがいていることを餓鬼道とも言います。

 

( じん ) とは激しく怒ること。

気に入らないものに腹を立てる。

嫌がる。

不快なものを遠ざける。

自分の言い分が通らないと怒る。

自分より優れている者を妬んだり恨んだりと、気づかないうちに修羅の世界にいることがあります。

日常生活の中で怒ってはいけないと頭では分かっていても、ふとしたことで湧いてくるのが怒りです。

このような小さな怒りは、姿勢を正して大きく深呼吸する事で、心を落ち着け冷静になることが出来ます。

しかし人間が生きている限り喜怒哀楽は無くなるものではなく、怒らなければならない時は、落雷の如く怒ることも大切だと先師はしばしばおっしゃられていました。

感情的ではなく、慈愛のこもった怒りは、後も残らずカラリとしています。

この様な怒り方は、怒られた方も怒った方も気持ちの良いものでしょう。

私達の日常生活は、戦後特に便利になりました。

その反面、移り変わりが激しく、また情報も目まぐるしい程多くなっています。

そんな中で、時間のゆとりのない人、生活にゆとりのない人、心にゆとりがなくなり、イライラしたり、むかつく人が多くなっています。

家庭内に於いても些細なことで腹を立ててしまいがちですが、お互いの人格と違いを認め合い、相手を思いやる慈悲で暮らして行きたいものです。

 

( ち ) とは愚痴のこと。

言っても仕方のないことを何時迄もグチグチと言って嘆くことです。

私も時々、もう返らざる過去のことを悔やんだり、叶わないことを思って心を曇らせネガティブになることがありますが恥ずかしいことです。

癡にはもっと深い意味があると思います。

それは真理を理解する心を持たない無智な事です。

真理とは真の道理(まことのどうり)のことで、「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」という古歌にもあります様に、この宇宙の大生命大自然の法則は誰の仕業でありましょうか?

誰の為していることなのでしょうか?

 

お釈迦様は或る時の説法で、「一切が燃えている」と言われました。

人間の持つ貪瞋癡が燃えていると言われたのです。

油断して清浄心を磨くことを怠けていると、過剰に貪欲になったり、憎しみや妬みなどの感情を燃やしたり、道理を知ろうとしない愚かな感情に支配され、危ない状態になることを戒めておられるのであります。

私達人間は誰でも生まれてくる時は、平等に純粋無垢に生まれてくるものです。

赤ん坊を見れば分かるように、あるがままに何の計らいもなく素直な心を持って生まれてきます。

ところが、成長してくるにつれて、世の中のさまざまな雑事に汚染され、貪瞋癡の三毒に犯されてくるものです。この三毒に燃えていることに早く気付き、何物にも執われない智慧を養って行く事が肝要であります。

私もこの貪瞋癡の言葉に出会って、修行の継続が大切であることを痛感したのであります。

合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 13:43 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
“花と石”

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庭の福寿草が雪間にほころび初めた頃、見知らぬ人から一通の封書が届いたのは十年ほど前のことでした。

中には黄ばんだ古い新聞の切り抜きと、一枚の便箋に隙間なく書かれ、癌の手術をくり返えしたが完治せず、今は末期の苦しい闘病中で ( さき ) が短いこと、新聞の切り抜きの記事に、ながい間、心が癒やされて来たことのお礼などが書かれていました。

裏打ちされたぼろぼろの新聞の切り抜きを見ると、見覚えがあり、私が昭和五十年頃、北海道歌人会賞をいただいた直後に、北海道新聞の文芸欄に請われ、「花と石」という題で随筆を書いたことがありました。

何を書いたのかすっかり忘れていましたが、切り抜きを判読すると、「花と石」に象徴した人生観が書かれており、移り変って行く世の中に純粋に生きる人間を花にたとえ、不動のものを石にたとえた未熟な文章でしたが、その人が読んでくれて保存していたようですが、医師に宣告され最後の身辺整理に送ってくれたのでしょう。

 

この度、「あけぼの」にのせるテーマを前記とは関係なく「花と石」と漠然と決めていたのでその偶然に驚いています。

 

 “花”

私たちの日常生活は、急激に科学が発達し、経済生活も豊かになりましたが、「衣食住足りて空虚を知る」というアンバランスに悩まされている人が多いと聞きます。

戦前、戦後とは別次元の情報化のスピーディな日常に、ストレスや欲求不満に心身共にすり減りそうな日々を送っています。

その心の空しさを満たし、永遠の 生命 ( いのち ) を求め、真の幸福を暗中模索しているのが現代の私たちではないでしょうか?

 

寂かに坐禅を組み、自分の心中に分け入って見ると、仏にもなり、凡夫にもなり、花にもなり、石にもなる、なんとも定義しようのない不思議な存在が私たち人間であることに気づきます。

能楽を大成した世阿弥は「時分の花とは若い時の花であり、まことの花は修練、修養によって得られた花のこと」と云われ、「住するところなきをまず花と知るべし」とも言われています。

つまり、現状にとどまらず修練をつづけていくことが花であり、更には何ものにも執らわれない清浄心が花であります。

 

思い起こすと、先師の如々庵芳賀洞然老師は、石狩道場並びに新潟道場建設のために、茶掛けの一行物を沢山ご揮毫されました。

一気に三十枚もご揮毫される時もあり、老師の気迫に、手伝いを命じられた私たちは緊張の連続でしたが、時折老師のお好きな句を書き終えた時など、その句の意を細やかにご説明して下さり、それが楽しみでもありました。

 

〖 百花為誰開 〗  百花

( ひゃっか ) ( た ) が ( ため ) にか ( ひら ) く

 

春ともなると百花はなぜ色とりどりに開き、百鳥は何のために ( たえ ) なる声をはりあげて歌うのであろうか。

生物学的にいえば種族保存のためというでしょう。

しかし花や鳥は、そうした「種族保存」のためになどということを少しも意識していない。

むろん自分の幸福のためなどとも考えていない。

ただ内から盛りあがってくる生命力にもよおされ、つきあげられ、咲かずにおれなくて咲き、歌わずにおれなくて歌い、本然の自性をおのずから流露させているだけのことである。

また花や鳥には、人を楽しませてやろうとか、特定の誰のためにしてやろうとかの意識もない。

花や鳥には、自らの美しい色香や妙なる音色を誇る気持もなく、自らの本然の性のままに開いて、自らも満足し、他をも喜ばせ、しかもいささかもその功を誇ることもない花の在り方、生き方を説いて下さいました。

 

“花”は私たち修行者の在り方を象徴したものであります。

自利しようの、利他しようのとの意識もなく、ただそうせずにはおれなくて、誰彼の別なく、縁に応じて慈悲を施し、しかもその功を誇ることのない在り方、生き方を示している句であり、ふたたび三たび味わい、身につけていきたいと思います。

 

 “石”

禅語としての「石」は多くの場合 知識的な認識や常識を離れ、何物にも執われない高次の自由な心の活動を指しています。

京都の竜安寺の石庭は草木を一切使わず渦巻く白砂に大小十五箇の岩石を配した枯山水ですが、なん度訪れても飽きることのない奥深さを感じます。

一つ一つの石がそれぞれの個性を持ち、己を誇るでもなく卑下するでもなく、黙然としながら大自然をいぶきしています。

寒熱に耐え悠然と動じないのも石であり、庭園などに趣きを添え、観る人の心を和らげてくれるのも石でありますが、大自然と渾然一体となった人間の高次の心境を拓すのも石であります。

 

耕雲庵老大師の『句津籠』を拝読していたら、十五句ほどの石の句があります。

その内から五句ほど抄いてみました。

 

    石 ( かそ ) く若葉洩る日に育つべし

    打水や庭石個々の光あり

    寂然と幽石坐る梅雨の庭

    石庭の石黙々と秋時雨 (竜安寺)

    処得て石の据りや霜ばしら

 

上記のような句を拝読すると、石を詠んでいるように見えて、たんなる無機質の石ではなく、純粋な人間性を象徴する石の姿が生き生きと見えてきます。

〇新緑の若葉より洩るる日の光りは爽やかで清浄そのもの、その自然の恵みを受けて育っていく石、

〇打水に、今迄目立たなかった石たちが個性を発起し生き生きと働き出す姿、また

〇寂然不動の幽石の高次元の境涯でしょうか?

〇石庭の石のそれぞれが本然の自性を発揮しながら調和のとれた黙。

〇石を含めた一切の万物がみな その所を得、おのがじしの自性を表わしながら寂光浄土をあらわしています。

私たち人間も同じで背骨がしっかり立っていると、さまざまの困難に出あっても耐えることが出来ます。

平素は石のように目立たぬ存在であっても、難局に会ってはじめてその力量を発揮することの出来る人間力を示唆していると思います。

また、俳界において前人未踏の境地を開いたと云われる芭蕉の句にも“岩”の句があり魅かれます。

 

     ( しずか ) さや岩にしみいる蝉の声

知らない人がないくらい人口に膾炙された句ですが若い時に味わったときより、年を経て味わった時の方が、すこぶる格調の高い趣きが伝って来ます。

寂然不動たる本体の世界に、つまり、黙然の岩に、蝉の声がしみいってくると。

蝉の声には何の作意もなく、中からつきあげてくるものでひたすら鳴いているが七日ばかりのいのちでありましょう。

ここには、生々流転の流行と寂然不動の不易が調和し、大自然の寂光浄土を感じさせてくれます。

俳句や短歌を詠むには、上手によむ技よりも、作品以前の心田を耕し、心を錬磨することがより大切であります。

心田の手入れを怠ればすぐに雑草がはびこりますが、手入れを怠らず土壌を豊かにしていきたいものであります。

合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 08:43 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
一道に命を懸ける

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* 明日あると思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは (親鸞聖人)

 

災害は忘れた頃にやってくると言いますが、平成23年3月11日の東日本大震災の猛威は生涯忘れることが出来ません。
テレビや新聞に報道された現地の状況は、これが現実なのかと眼を疑うばかりの恐ろしさと悲惨なものでありました。

 

ひたひたと増す水勢はまるで巨大な怪物のように暴れまわり一瞬にして家を破壊し、人も車も財産もすべて呑み込んでしまいました。
親を失った子、子を失った親、最愛の者を失った人達の悲痛の深さは計り知れません。
また、幼稚園に孫を迎えに行った祖母が、不意の増水に閉じ込められ危機一髪のところで車から脱出し、幼い孫をその父親に渡した途端に力尽きて濁流に呑まれました。
その時「バンザイ、バンザイ」と手をあげて流されていったそうです。
後日その息子さんは目の前を流されていく母を助けることが出来なかったことを悔い、声を殺して慟哭している様子が放映されていました。
祖母は命がけで守った孫を、その父親に無事渡すことが出来て、心の底から「バンザイ、バンザイ」と喜びの声を発したのでしょう。
濁流に呑まれながら「助けて!!」と叫んでいたら、残された息子さんは、もっともっと苦しみ自分を責めていたことでしょう。

 

人間の本音とは思考するゆとりもない切羽詰まったところから無心に発せられるものであり、流されながら叫んだ「バンザイ」は真実の声であります。
これで良かったと自らに納得し、我が身を捨てて孫を救った菩薩さまであります。

 

◇ 諸行は無常なり ◇

 

あの3月11日の災害から7年の歳月が流れ、街の地形も人々の生活も一変してしまいました。

 

方丈記(鴨長明)の冒頭に、
「ゆく河の流れは絶えずしてしかも本(もと)の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく止どまりたる例(ためし)なし。世の中にある人の栖(すみか)とてまたかくの如し」
とありますが、万物は常に生滅変化して定まることがなく、一切の有為の法は生滅変流して常住することがない。
諸行は無常でまことに儚いうたかたのようだと。
私たちの存在もまた、時の推移と環境と共に移り変わっていくものであり、あらゆる現象は変化して止むことが無いのであります。

 

大乗・涅槃経巻14に説かれている『雪山(せつせん)童子(どうし)』の一章が思い起こされますが、若かった釈迦が、ヒマラヤ山脈で難行苦行の修行をしていた頃のことです。
童子の道心が本物かどうかを試すため、帝釈天が羅刹(食人鬼)に姿を変えて『雪山偈(せっせんげ)』の前半の二句を唱えます。
「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)・是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)」と。
人間の存在を含め、作られたものは全て無常であり、生じては滅して行くことを本性とすると。
和訳すると、「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ」となります。
長い間難行苦行に身も心も疲れ切った童子は、ふとこの言葉に耳を傾けます。
まわりを見ても誰もいない。
童子は、声のした方に向かい、残りの二句を是非お聞かせ下さいと伏して頼みます。
するとどこからか羅刹の声がして「俺は今すごく腹がへっている。残りの二句を訓える代わりにお前の命を貰うぞ!」と言います。
童子は残りの二句を聞くことが出来るなら、喜んでこの身を差し上げましょうと約束します。
命を捨ててまで体得したかった残りの二句とは、「生滅(しょうめつ)・滅巳(めつい)・寂滅(じゃくめつ)為(い)楽(らく)」であります。

 

作られたものは、全て無常であり、生じては滅して行くことを本性とする。
これに続く言葉として、生滅する物がなくなり静まっていることが安らぎであると。
和訳では「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔(え)ひもせず」となります。
帝釈天は、童子の堅固な道心に感じ入り、羅刹に身を投じようとした童子を空中に受け止め、地上に安置して敬礼したというお話です。

 

私たちが自己として認識されるものも、それに執着すれば苦悩の元であります。
坐禅の修行によって心が静まり、寂然不動の境涯を手に入れることが出来れば、煩悩の炎や迷いも無くなり究極の安らぎを得ることが出来るということであります。

 

◇ 念念正念の力 ◇

 

先年上野博物館に於いて、白隠禅師の画絵や書を拝観する機会があり、太々として額面から溢れんばかりの「南無地獄大菩薩」の書に圧倒されて来ました。
国内ばかりでなく、海外でも親しまれ、多くの人々に膾炙されています。
その名高い白隠禅師の師匠であります正受老人(道鏡慧端禅師)の逸話があります。

 

正受老人は名声や財は求めず、人里離れた山奥に住み、ただひたすら仏道を保っておりました。
30歳から70歳になるまで、正念の工夫を絶やさないよう聖胎長養を続けていました。
正念の不断相続に努め自分の心を観察しようと決めます。
いつ心に隙が出来るか油断の無いようにとそれだけに集中して35歳の頃から続けてようやく70歳近くになり少し出来るようになって来たと述懐しています。

 

正受老人が63歳の時、飯山の里に狼の群れが出て多くの人が負傷するという事件がありました。
宝永年間の初めに村の人が山で狼の子を見つけ可愛らしかったので、拾って来て家で飼っていた所、犬に噛み殺されてしまったのです。
それ以来毎晩のように、狼の群れが村を襲い、垣根を破って家の中まで入り、人間の子供を襲うようになり、村人達は夕方から門を閉ざして怖れていました。
この話を聞いた正受老人は、村はずれにある狼の集まる墓場に行って、およそ7日7晩ずっと坐禅を続けました。
狼達は、正受老人が坐禅している所へ近づき、喉のあたりをクンクン嗅いだり耳に息を吹きかけたりしたのですが、寂然不動で微動だにせず正念の工夫を続けたのです。
その時ほんのチラッとでも恐ろしいとか、嫌だなという念を起したら、ガブリとやられたかも知れません。
正受老人の命を懸けた修行の厳しさに思わず寒毛卓堅しました。

 

◇ 今を生きる ◇

 

一念一念を正念で生きることは、まさに今を生きることであり、一道に命を懸けることでありましょう。

この度、ピョンチャン冬季五輪フィギアスケートで金メダルに輝いた羽生結弦選手の熱演に感激の涙を流した人も少なくないと思います。
昨年11月に右足首の靭帯損傷の大けがから復帰しましたが、まだ完治したわけではなく痛みを抑える強い薬を打って競技に臨んだといいます。
この薬は下手をすると脚の感覚が鈍り跳べなくなるだけでなく、怪我の危険もあり、もしものことがあれば選手生命を失うというギリギリの選択ということでありました。
演技を終えた羽生選手は、ひざまずいて右足首を撫で、良く頑張ってくれたと感謝していました。
氷上では、人間技とも思えないような4回転ジャンプは、0.6秒か0.7秒と言われる瞬間の技です。
少しでも気持ちが揺れたり迷いが出たら氷に叩きつけられてしまいます。
羽生選手の演技のひとコマひとコマが正念であり、正念を相続することに命を懸けて取り組んで来た事が伝わってきます。

 

今、当面していることに没頭する事が、今を生きるであります。
私たちは修行に修行を重ねなければ、そう簡単に出来ることではありません。
こんな正受老人の歌があります。

 

* さしあたることのみ思え人はただ帰らぬ昨日まだこぬ明日

 

人はただ今の差し当る事だけに集中しなさい。
もう昨日は帰って来ない。
明日もまだ来ていない。
という意であります。
少々の苦しさや悲しい事があっても、今日一日の辛抱だと思えば耐えることができます。
子育てや、親の介護、会社勤務、そして禅の修行も長い一生と思うから辛くなります。
本気でやる本物は飽きないものです。
今日一日今日一日と続けて行くことが出来て、日々新しい人生が開けて行くと思います。
合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 17:42 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
己にもゆる

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◎ 老いらくの己にもゆるや桃の酒

 

耕雲庵老大師の俳句の中にこのような一句があります。
この句をはじめて拝誦した時は、深い真意も分らず、句の醸し出す華やかな雰囲気に魅かれて愛唱していましたが、年齢を重ねるごとに味わいふかくなってきました。

 

「己にもゆる」とは、自主的な禅者の生き方をさりげなく示唆されておられ、主人公である自己が時には居眠りしていたり、意気消沈していないか、自らに警策を加え「よーし、燃えているぞ」と自らに返事をし、老いて猶たゆみなく己を錬磨されているお姿が目に浮かびます。

 

己にもゆる人とは、何か物事をなすにも自らが燃えて、そのエネルギーを周囲にも分け与えられる人であり、他人から言われて仕事をする、命令を待って動き出すのではなく、言われる前に自分から率先してやり、周囲の模範となるような能動性や積極性に富んでいる人のことを指していると思います。

しかし、人間にはいろいろのタイプの人がいます。

 

火を近づけると燃え上がる可燃性の人
火を近づけても燃えない不燃性の人
自分自らが燃える自燃性の人

 

このように自然にもえ上がる人もいますが、まわりからエネルギーを与えられても、少しも燃え上がらない人もいます。
仕事はもちろんのこと、禅の修行でも、趣味でも、それを持続するためにはエネルギーが必要であります。

 

では不燃性の人が、自燃性に人になるにはどうすればよいのでしょうか?
諺に“好きこそものの上手なれ” とありますように、今自分が打ち込んでいるものを「好き」になることです。
自分自身を励まし、そのことに燃え上がることで、エネルギーが湧き上がって来ます。
目前のことを嫌嫌やるより、全力を打ち込んで取組めば、おのずと好きになり道はひらけるものです。

 

他から見て大変な苦労も、自ら燃えてやれば楽しみになり、自信が生まれ、達成感が湧き喜びにもなりましょう。

 

禅の修行にしても、折角ご縁を得て入門してもいつの間にか初心を忘れ、些細なことを問題にして修行を中断したり、のらりくらりと修行していては勿体ないことです。
人生は「無常迅速」で歳月は人を待たずであります。
只今のこの一事の「己にもえる」ことです。
自我の愛着を根からたち切り、他に依って動かされることなく、幻を追うて生きている現状を打破して、ほんとうの自己を育てていくのが禅の修行であります。

 

「正法の禅」の人間禅は、人間形成を主とし、新しい時代に合わせて、全ての志ある人々に開放され、家庭や社会生活を営みながらの修行であります。
時には都合がつかずどうしても出来ないときもあるでしょうが、ほそぼそでも続けることが大切であり、この修行に命をかけることです。
継続することによって、智慧が磨かれ、命の尊さ、生きる力が湧いてきて、秩序立った生活、礼節も信もそして正義も確立されるものです。

 

人生で一番大事なことは、自分がやると決めた一つのことをやり続けることです。

 

私もなんとか八十路の坂を越えましたが、人間として生きることの尊さと法恩のありがたさに感謝の日々を送っています。

合掌
蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 16:30 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
木を見て森を見ず

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古い諺には不思議な力と味わいがあります。

この諺は森の中の一本一本の木を見て、大きな森全体を見ないということですが、その奥にある意は、物事を見る場合には末梢のことにとらわれず、本筋を見よという教訓であります。

 

ある時、歌人の集会で女性は「木を見て森を見ず」と指摘されたことがありました。

失敗や欠点をズカリと言われるより、物事に譬えた諺で言われた方が心の底から納得することがあります。

標題の言葉も 何時の時代に、誰が言ったのかわかりませんが、切り捨てるような教訓ではなく、言葉の奥に包み込むような思いやりが感じられます。

 

わたしたちは、ともすると小さな感情に囚われて大局を見失ってしまいますが、それを戒めた諺でありましょう。

森には曲りくねった松もあれば、真直ぐに伸びている杉もあり、桜もあれば大きな柏の木もある。

落葉樹もあれば常緑樹もあり、葉には裏もあり表もあります。

木はそれぞれの個性を持ちながら、譲り合って精一杯生きてをり、それが自然の相であります。

 

わたしたちの社会には、さまざまな出来事があります。

自分の意にかなったり、かなわなかったり、人に誉められたり ( けな )されたり、苦しみ悩んだり、喜ばされたり、一喜一憂して生きているものですが、それらはみな小さな自我に囚われているからでありましょう。

小さな自我を否定し、無限の慈悲と智慧を磨きながら、それぞれの個性や人格を認めあい、互に譲りあって仲よく生きること、それが社会という大きな森であるという解釈もできます。

 

 

私たち女性には視野の狭いところがあるのではないでしょうか。

末梢のことにとらわれて本筋が見えなくなり、折角ご縁があって禅に入門しても、途中で挫けてしまい、修行を中断してしまうことは残念なことです。

 

禅語に「 八風吹 ( はっぷうふけども ) 不動 ( どうぜず ) 天辺 ( てんぺんの ) ( つき ) 」という語があります。

八風とは人の心を動揺させるさまざまことを風に譬えたもので、 ( り ) ( すい ) ( き ) ( よ ) ( しょう ) ( き ) ( く ) ( らく )  のことを言います。

 

( り ) ( すい )  ・・・・・意にかなうこと と 意に反すること。

( き ) ( よ )  ・・・・・人を悪く言いたてること と 賞讃すること。

( しょう ) ( き ) ・・・・・ 面前で ( ほ ) めること と 誹謗すること。(そしること)

( く ) ( らく )  ・・・・・ 身心を悩ますこと と 喜ばすこと。

 

人間の社会にはこのような風が常に吹き荒れているようですが動揺せず、いかなる困難にあっても、いささかも挫けないで、正法に安住し、泰然自寂としていることであります。

私たちも限られた命を大切にして、一歩でも半歩でもこのような境涯に近づきたいものであります。 

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 18:15 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |