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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
禅と私(紫光 八王子禅会)

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シリーズ「女性と禅」 第4回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

昨年は、家の事情(母の介護)で、所属支部の摂心・静座会しか出ていません。

葆光庵総裁老師にも参禅したいのですが、なかなか思うようにはいきません。

しかし、所属している八王子支部担当師家の鸞膠庵老師に参禅し、有難い気持ちで一杯です。

室内の事は他言できないので、何も言えませんが、鸞膠庵老師のご指導と公案の有難さを日々思っております。

感動です。

3年前に故・微笑庵老禅子からいただいた手紙に

「自分の力を1本に束ねよう、1本に束ねれば盤石です。

50歳を過ぎれば他人の評価など気にせず、これまでに得たほんとうのものを信じるのです。

幸い八王子支部は葆光庵総裁老師のもと(当時)、鸞膠庵老師を戴いてぴったりと思います。

鸞膠庵老師は『じつ』のあるお人です。

『実』があれば『わかる』それが人間です。

『じつ』以上のものはありません。

『じつ』はやり直しがきく。」

御病床だったのにこんな力強い言葉をいただき、今有難く思っています。

 

鸞膠庵老師が「八王子支部は、『座の八王子』と言われるくらい、座禅に骨を折れ」と言われており、私は今、1日に座禅は2〜3炷香しています。

静中の工夫と動中の工夫を人一倍しなければ力のない私は駄目なので、頑張っています。

心が強くなってきたな、と感じています。

詩人ウルマン原作「青春」の中に『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる』とあります。

寒い2月の八王子支部摂心会から帰ってきましたが、自信というものがようやく身に付いてきました。

心の豊かさ暖かさとはどういうものなのか、日々新たにして日々新た、です。

家に帰り、一番身近な家族を大事にする気持ちになれるのも、禅で心が養えてきたな、と感じているところです。

 

皆様にご心配いただいていた腰痛もまだ抱えていますが、それに加えて肩こりがひどくなり、週に2度程整形外科に行ってマッサージと牽引をやっています。

座禅中も痛くなり、助警に肩を叩いてもらうと少し良くなります。

昨年の「あけぼの」の珠滴庵老禅子の「膝さんありがとう」を読むと、私の痛みはまだまだだな、でも、「腰さん肩さんありがとう」とまで言えればしめたもの、とも思えました。

鸞膠庵老師に「摂心会 ご苦労様でした。ご家族の介護 ご自分の体調等 充分な修行環境のない中で 限られた時間で修行するのが本当の修行です。」とお声をかけていただき、色々と難題がありますが、本当の修行、工夫してこの禅の修行を全うできればどれだけ有難いか、と思っています。

鸞膠庵老師から次のような言葉もいただきました。

「修行を重ね 耕雲庵老大師 岡山でのご垂戒『最後の安住地に到達すべし』を目指すのではないでしょうか?」

日々の工夫に骨を折り、磨甎庵老師がよく言われていた「我も人なり 彼も人なり」彼とはお釈迦様、もう若くはない、怠けず精進したいと思います。

 

〖付記〗

青春

サムエル・ウルマン 岡田義夫訳


青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

(この詩を禅を始める前の私が読んだら、厳しい内容に心がしぼみ、私には青春は無いのか、老いていくだけか、と落ち込んだと思います。禅をやり、心の在り方を正していくと、この詩の厳しさを引き受ける力がようやくついてきたな、と感じることができ、禅に出会えて本当に良かったと思います。)

 

ツユクサ(イラスト)

  合掌 紫光(八王子禅会) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 22:48 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
茶の湯の現状(1)|再録「禅と茶道」 輯熙庵内田慧純老禅子

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(2)茶の湯の現状

 ところで、現在、茶の湯の現状はどのようでしょうか。それは一口にいって、これから私が述べる本当の茶の湯、茶道というものからは大分遠いように思われます。

 茶道第一の書と言われる『南方録』の滅後の巻にはすでに、利休の言われた言葉として、次のように記されております。

「十年ヲ不過(すぎず)、茶ノ本道捨(すた)ルベシ」。この意味は、自分の死後、十年もたたないうちに、茶の本来の姿はすたるであろうというのです。そして、「スタル時、世間ニテハ却而(かえって)茶ノ湯繁昌ト思ベキ也」と続いています。本来の茶道の姿が見失われて行くであろうけれども、そういう時はかえって茶の湯が繁昌して、多数の人が関心をもつに違いないというのです。

『南方録』は、利休の弟子南方宗啓が、平素の師の教えを書きとめた、いわゆる聞き書きですが、滅後の巻は利休の三回忌に際して書かれたと伝えられます。たしかに利休の死後、茶の湯は、その創成期の生き生きとした息吹きを失い、だんだんと硬直化、形式化の道をたどり、先人の遺した形や寸法に固執するのみで、自由な茶の心を失ってきているといわれます。

 利休流の茶の湯は、その子孫や弟子によって多数の流派に分かれて伝えられてきましたが、現在、茶を習う人口は今までにないほどの多数にのぼって、まさに繁昌しております。とくに婦人が好んで稽古をするようになりましたので、一見まことに茶の湯の世界ははなやかに隆盛しています。しかし、このように普及してきますと、安易に流れやすく、稽古事として、点前の順序や道具の扱い、作法を覚えるに止まって、茶道の本質が忘れ去られていくのではないかと思われます。

 元来、日常茶飯事の言葉の通り、茶の湯は日々の生活の営みに深くかかわってくるはずなのに、特定の茶室のなかや茶会のいわゆる晴れの場に限られて存在すると錯覚してきてはいないでしょうか。さらに茶会を催す折に、道具屋より目新しい高価な道具を備えて借りる風潮がみられると聞きますと、「茶の道すたるべし」の指摘の通りといわざるを得ないのではないかと思います。

 ある人は、このような稽古や茶会の現状を茶の湯の疑似体験と酷しく批評しております。にせの体験というのです。せっかく茶の稽古によって学んだ技法や心入れを日常生活に生かすまでに深めないならば、単なる手すさびに終わってしまうのです。一時の体験に止めてしまうのは、あまりにも惜しいことです。永年にわたって茶の湯を生活に浸透させ、それによって人間形成していくことが望まれます。

 

加藤紫光(八王子禅会) #茶道部

posted by ただいま禅の修行中 | 20:00 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
茶の湯には儀礼、社交、芸術、修行・・・|再録「禅と茶道」 輯熙庵内田慧純老禅子

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(1)茶の湯の側面

 伝統的に培われた点前や道具、建物、庭など有形無形の深い趣をもつ茶の美に魅せられ、芸術的価値を見出している立場もありましょう。また、心のこもった社交の儀礼として、つまりセレモニーの方法と評価する見方もあります。

 なお極端な見方として、金持ちの道楽に過ぎないと否定的に見る見方があります。本来道楽とは、道を楽しむことで高次の楽しみのはずですが、現在普通に使われる意味の道楽とみなす見方です。財力にまかせて高い茶器を買い、ぜいたくな茶室を建てるなど、茶の湯が、庶民から遠い、金のかかる道楽となっているという批判です。

 たしかに、茶の湯文化は奥が深く、多面的な要素をもっています。人びとはそれぞれの立場や関心から自由に茶の湯にかかわっているのですから、見方や評価が分かれても仕方がありません。ここで以上のことを整理してみますと、茶の湯には、儀礼、社交、芸術、修行という性格があるといえると思います。

 そこで、本当に深く茶の湯の豊かな文化とその心を味わいたいとするならば、茶の湯の本質とは一体どんなものか、日本を代表する最も日本的な味わいとその文化体系とはどんなものか、もう少し茶の湯の世界に分け入って考えてみなければならないと思います。

 

加藤紫光(八王子禅会) #茶道部

posted by ただいま禅の修行中 | 15:00 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
茶の湯の側面|再録「禅と茶道」 緝熙庵内田慧純老禅子

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1 現代と茶道 利休に帰れ

(1)茶の湯の側面

 まず茶の湯ということですが、日本文化のなかでも、最も日本文化らしい特色をもち、世界にも誇りうる極めて格調の高い文化といわれています。

 茶はもともと中国より伝わったものです。しかし、中国流の茶の製法と飲み方を取り入れてから、日本においては、茶の湯、茶道という独特の文化形式を育てあげてきたのです。つい先頃、日本の茶道のある家元の方が中国に行かれ、時の政治家や一般の方々に、日本式のお茶を点てて飲んで頂き、親善をはかったという報道がありました。つまりお茶の逆輸入によって文化交流を果たしたということです。中国の方々から、今までこのような飲み方を知らなかったと大変喜ばれたという話です。

 また先日は、ソ連の高官の来日を歓迎して、東京都で茶会を催したということも伝わってきましたが、このような例を挙げるまでもなく、日本文化を外国に紹介するときには、ほとんど決まったように茶の湯が取り上げられます。日本文化の代表のように扱われるわけですが、では、かえりみて、わが国の人々は茶の湯をどのように認識しているのでしょうか。これにはさまざまの見方や評価がなされています。

 第一に、茶の湯は非常に格式ばったやかましい作法があって窮屈な古めかしいものという表面的な認識があります。あるいは、若い女性が結婚前に礼儀作法を習う稽古事に過ぎないと見る見方もあります。あるいは、日本的に趣味や教養を身につける風流の道という位置づけもされていると思います。またお茶を通して人生を味わい人間形成をはかろうと願う人びともあるでしょう。(つづく)

 

加藤紫光(八王子禅会) #茶道部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 13:00 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
再録「禅と茶道」 緝熙庵内田慧純老禅子

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1 現代と茶道 利休に帰れ

 

 茶味という題で、これからお話をするわけですが、お茶の世界は、入れば入るほど奥深く、とても一片のお話でもって、その味わいを語ることはできません。ただ将来、茶道に親しまれ、その行に精進されて、茶味を味わいつつ豊かな茶の文化を楽しまれる契機となることを願いつつお話をすすめてみたいと思います。

 

 

※今回、緝熙庵内田慧純老禅子の「禅と茶道」をブログに掲載しようと思ったのは、禅の蘊奥を極めた老禅子の語り口が素晴らしく、禅についても茶道についてもわかりやすく書かれているからです。

 茶禅一味と言われるように、禅の心を表したものが茶道と言えるのではないでしょうか。

 これからあらためて新しいホームページに順次掲載していきます。

(このお話は、千葉大学教養部の総合科目の講義で、「茶味−茶禅一味の茶について」と題してなされたものですが、後で「禅と茶道」という題に変えて一冊の書となったものです。)

 

加藤紫光(八王子禅会) #茶道部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 18:00 | 八王子禅会 | comments(0) | - |