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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
禅と出会って(香水 東京荻窪支部)

シリーズ「女性と禅」 第5回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

平成26年夏に、はじめて日暮里の擇木道場の女性部静座会(座禅会)に参加してから、早いもので4年目を迎えようとしている。

本来飽き性である自分がよく続いているものだと我ながら思う。

最初は、単に座りにこようと思っただけだったが、初日に丸川春潭老師にお会いし、お茶室で抹茶をいただきながら人間禅の歴史を聞いた。

土曜日午前中の女性部静座会(座禅会)に通ううちに、公案修行の話を熱く語る会員の方に接し、老師に願い出て初関をいただいたが、そのあまりにもわけのわからない内容がむしろ新鮮だったのか、俄然やる気になった。

何度目かの参禅を迎える早朝、朝から座っているときに、「これだ!」というものと出会った時の心の底からの安心は、今でもはっきり覚えている。

その直後に散歩して目に入ってきた木の葉がなんと鮮やかだったことか。

 

その後、公案修行の難しさに打ちのめされることもたびたびあるが、とりわけ自分の眼を開かせてくれた公案(例えば、「好雪片々」「至道無難」など)との出会いは、ただただ素晴らしいと思うと同時に、自分の眼の暗かったことに慄くばかりである。

もっと早く禅に出会いたかったというのが、正直な気持ちである。

 

とはいえ、20代で禅と出会ったとして、禅の修行を始めることができただろうか? と考えると、やはり無理だったのではないかと思う。

中学2年生の時に交通事故で亡くなった父親のいわば遺言として法曹の道を目指していた私にとって、とにかく早く司法試験に合格して母親を安心させてあげたいという気持ちが強く、実際に合格して検事になった後は、結婚、2人の娘の子育てと目まぐるしい毎日を送っており、到底禅の修行に時間を割くことはできなかったであろう。

子育てがひと段落し、やっとこれから自分のしたいことができる、その時は仕事がしたいと思っていたわけだが、結果的に、禅と出会うことになったのは、やはりお釈迦様の御導きというほかなく、これでよかったとも思う。

 

しかし、昔を思い出してみると、大学時代には無教会主義の信奉者である大学教授による聖書を読む会に参加したり、30代前半ころには近所の教会にも一時期通っていたことがあった。

若いころ、遠藤周作(「沈黙」は最高傑作であると思う)や高橋たか子の小説をよく読んでおり、その影響もあったのかもしれない。

将来に対する漠然とした不安感から逃れたという気持ちや自分の生きる道しるべのようなものを探していたのではないかと思う。

 

人生の後半に差し掛かる50歳直前で出会った「人間形成の禅」は、私にとっては、今後の生き方の道しるべであり、最終的にはいずれ迎えるであろう死との対面準備である。

 

三昧を身に付けることは容易なことではないが、毎日愚直に座り、ただ座り、道を求めていきたいと願うばかりである。

  合掌 香水(東京荻窪支部)

 

 「おのれこそ おのれのよるべ

  おのれを措きて 誰によるべぞ

  よくととのえし おのれにこそ

  まことえがたき よるべをぞ獲ん」

法句経160  友松圓諦著「法句経」

(講談社学術文庫より抜粋)

posted by ただいま禅の修行中 | 22:13 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
坐禅の仕方

「坐禅の仕方」(荻窪ブログ)

 

いよいよ緊急事態宣言が発令されました。

外出自粛、テレワーク、飲食店8時まで・・・

毎日、コロナのニュースばかり見ていると、どんどん不安が増すばかりです。

こんな時こそ、座禅が効果的です。

実は、道庵居士が、家にいて坐禅を始めたいがやり方がわからない・・・そんな声に応えるために、下記のとおり、坐禅の仕方を説明してくださいました!

イラストもついてます。

とてもわかりやすく、初めての方でも、これを読めば、ご自宅でも坐禅できます。

よかったら、周りの方々にもお勧めください。            香 水  

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坐禅のやり方(臨済宗のスタイルです。)

 

新型コロナ感染症の拡大により、やむなくお家にこもらなければならない方も増えていると思いますが、皆様お元気にお過ごしでしょうか?過ごしでしょうか?

こんな時に少しでもお役に立てばと思い、坐禅のやり方をご紹介します。

 

不安感をやわらげたい

心を落ちつけたい

ヒマでヒマでしょうがない

集中力をつけたい

この機会に今までやってなかった事に挑戦したい

→といっても道具を買いに行くわけにもいかない

無になりたい

というかご家族や同居人から無になってほしいと思われている

 

などなど、これに限らず色んな方にオススメです♪

 

 

●道具(座具)

まず座布団を用意します。といってもウチには無いよ、という方はお布団や毛布などで代用してください。ただ、僕は適当な硬い台に毛布をかぶせて座っていたら座骨が圧迫されて痛くなったので、代用するにしても布など軟らかい物を重ねて使った方がよろしいと思います。

脚を組まずにイスに座ってやるというのもアリです。

ただ、僕も自宅で座るようになって始めは適当な毛布とかで代用していたのですが、やはりちゃんとした座布団を購入して座ったほうが具合が良いです。(無印良品で55×59cmのを買いました。https://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4548718599165)

曹洞宗では丸い坐禅用の座布団を使うそうで、それを愛用する方もいらっしゃいます。

基本は座布団を2枚用意して、1枚敷いた上に2つ折りをもう1枚重ね、その上にお尻を載せます。僕もそうなのですが、身長や体の固さで高さは変わります。これで低い場合はその上にもう1枚平らに重ね、それでも低ければ2つに折って重ねます。

座布団の高さの基準は、自分で座ってみてバランスよく安定できる高さです。

低く座っていてどうも不安定だったのが、ちょうど良い高さにすると、おっ!ココが安定する!となるポイントがあるはずです。その高さが正解です。

また、服装はゆったりした服でどうぞ。ジーンズとか固い素材のパンツはやりにくいです。

●脚の組み方

坐禅の座り方は「あぐら」じゃないんです。仏像みたいに脚を組んで座ります。

脚の正式な組み方は「結跏趺坐(けっかふざ)」というもので、右のふとももに左の足を上げ、左のももに右の足をあげます。

ただ僕もそうなのですが、脚が硬くて曲がらない場合は「半跏府座(はんかふざ)」といってどちらか片方の足をももの上に上げます。右、左どちらの上にのせるかで集中できる感じも変わってくるので試してみてください。それでも足が固くてももまで上がらなければ、無理せず楽な位置に足を置いてください。痛がるのが目的ではないので。

また組んだ脚の脇が不安定なら、そこにも座布団を差し込んで楽な座り方になってください。

脚が固くて組めないなら、正座した脚の間に2つ折りの座布団を挟む日本座というやり方もあります。それでもきつければ、イスに座るのもアリです。

あくまで坐禅は苦行ではありませんので、長時間楽に座れるスタイルを探してみてください。

●手の形

手は「法界定印(ほっかいじょういん)」という形を作ります。

右手の上に左の手を重ね、親指を触れるか触れないかぐらいにつけて(ギュっと押し付けない)卵のような形を作ります。

これをおへその下、組んだ脚の上においてください。

これで背筋を伸ばして顎を引きます。

この格好で前後左右に体をゆらしてみてください。力を抜いて安定できる場所が正しい位置です。長く座ってるとだんだん背中が丸まってきやすくなりますが、この時背骨を伸ばすだけではなく、お尻が後ろに寝てきていないか確認してみてください。むしろお尻、つまり骨盤を立てると背筋もシャンとします。

目の位置
目はつぶらず、1mほど前方に視線を落とします。目をつぶると寝てしまいますので注意。
よく「半眼(はんがん)」といいますが、無理に半分だけ目を開けようとしなくても視線をそこに置くようにすれば自然にそういう感じの目になります。
僕は初めて坐禅に参加したとき、1m先の床をガン見してしまい座り終わったらえらく肩が凝ってしまったのですが、視線を自分に引き込むようにしたら、そうならなくなりました。
僕が教わったのは臨済宗のやり方ですが、曹洞宗では壁に向かって座るそうでそれも良いと思います。
呼吸
息は鼻で呼吸します。腹式呼吸ができればその方が良いと思うのですが、かといって意識しすぎると不自然な呼吸になってしまいますので、あくまで身体に任せた自然な呼吸で。
ちなみに故中曽根康弘も坐禅をしていたそうで、インタビューで「お尻の下に1000メーターの井戸があって、底から空気を背骨を通して頭まで吸い上げる。それをまた1000メーターの井戸の戻すということを、想念で静かに深呼吸でやる。」と語っております。
www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/7-7gall.htm

 

 

●数息観(すそくかん)

さて坐禅では「無念無想」といって何も考えない、何も思い浮かばない無の境地に至るのを目指すわけですが、人間何も考えないというのは非常に難しいもので、最初からこれはまずムリです。無心になろうとしても、次から次から何か思い浮かべてしまう。雑念というヤツですね。

そのため、臨済宗のやり方では徐々に段階を踏んでいきます。

いきなり無を目指すのではなく、まず頭の中で自分の息を数えることだけに集中します。

「ひとつ、ふたつ、みっつ」と数えるなら「ひと〜」で息を吸って「〜つ」で吐く。次に「ふた〜」で吸って「〜つ」で吐く。これを繰り返して100まで数えます。100までいったらまた1〜100まで数える、これを繰り返します。

途中で数がわからなくなってしまったら、また1から数えなおしましょう。

ポイントは「数を数えるのではなく、呼吸する息を数える」ということ。やってみると全然感覚が違います。

間違えずに繰り返し100まで数えられるようになったら、次の段階は1〜10まで数えるのを繰り返します。ただし、ちょっとでも雑念が浮かんだら1に戻ってやり直し。それもできるようになったら1〜9、8と減らしていって1,1,1と数える。

そして最後には息を数える事すら止める。このように段階を踏んで無念無想に至るのですが、まあ〜〜〜〜難しい。まずは間違わず100まで数えられるようになりましょう。

 

でも息を数えていても雑念は浮かんでしまう。これはしょうがない事です。

大事なのは「二念をつがない」ということ。

たとえば「奥さんが帰ってきた音がした。→今日の晩御飯はなんだろ?→昨日食べたアレうまかったな・・・」と、人間はひとつ何か思い浮かぶとそのまま連想を続けてしまうものです。

ここで「奥さんが帰ってきた音がした」ら、そこでスパッと切ってそれ以降は考えない。

自分が連想してるな、と気づいたらそこで切る。

これが大事です。

座る時間
正式な坐禅では一柱香と言って、お香が1本燃え尽きる時間約45分が基準です。
最初に合掌して一礼、45分座って終わりに合掌して一礼します。
また、座ってるうちに足が痛くなってきて組み替えたり、ど〜〜しても鼻がかゆくなってかいたしまったりして姿勢を崩す時や、人に呼ばれたりして中断するときは一度合掌します。
道場では毎日毎日145分は座りなさいと指導されるのですが、初心者が45分座り続けるのはきついと思います。
まず息を100まで数えてみるとか、10分、30分座ってみるとか休憩も入れながら続けてみると良いと思います。
自分の気分が不安定だな、と思ったらほんの少しの時間座るだけでも気分が落ち着くのでお勧めです。

参考になれば幸いです。 道 庵  (東京荻窪支部)  

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posted by ただいま禅の修行中 | 10:48 | 東京荻窪支部 | comments(3) | - |
身体を通して考える僕と座禅(その3)

身体を通して考える僕と座禅(その3)

 

以上をお話しした後、名誉総裁老師よりストレスと身体についてどのような反応が出るかとのご質問がありました。

その場では、その人それぞれに、その人らしい身体の特徴として現れるようなお答えをいたしたのですが、不親切な回答であったと反省し、今更ではあったのですがよくあるパターンをメールでお答えいたしました。その内容も補記しておきます。

ただ、あくまで人の身体は一人一人違うものであり、実際の施療の場でもケースバイケースであることを申し上げておきます。

●頭が固くなる

人の頭は皮膚の下に頭蓋骨があるように感じられますが、実際には脳を保護するため筋膜で覆われています。

ここも施術するのですが、これがさわるとカチカチに固くなっている場合があります。精神的に張りつめており、

態度もかたくなになっていて文字通り「頭が固い」印象を持ちます。

また、パソコンやスマホのモニターを凝視しつづけることで、目も緊張いたします。

●顎をかみしめる

パソコン作業に集中してるうちに、無意識のうちに顎をかみしめる癖が出る。寝ているとき歯ぎしりをしている人もいます。

前述の頭が固くなるのとも関係しますし、単純に言うと顎の後ろの首をねじることで背骨全体のねじれの元になる。

もちろん肩こりや頭痛もおきやすくなる。

●横隔膜が上がっている

横隔膜が上がったままになっており、呼吸が深くできず浅くなってしまう。

そうすると十分に酸素がとりこめないので寝ても疲労が抜けない、という悪循環に陥ります。

腸も固まって動きが悪くなっています。お腹が固くなっているわけですが、どちらが先というよりお互い影響しながら起こっているのだと思います。

●肩が上がっている

肩肘はるような恰好になっています。前述の横隔膜が上がることとも関係しています。

肩や首が固まってきつくなる、テンションが上に上がって興奮が続いて収まらない、落ち着かない、という感じになります。

よく首の下の胸椎1番が緊張しています。それと連携しているのが腰椎1番なのですが、ここが身体の上下運動を司る場所でもあります。

そこを緩めるとテンションを下げるように操作できます。

●手が固まっている

パソコンのマウスを握ったままの形で手が固まっている人もいます。無意識に手に力を込めて握りこんでいるのだと思われます。

手からつながって肩首を緊張させています。

東洋医学では手、腕の内側には精神状態と関わりのあるツボ、経絡があり、固まることで精神状態が緊張します。

施療としては緩めることでリラックスさせますし、腕の外側のツボを調整していくと腸が動いていきます。

 

などなど、簡単に列挙してみました。以上はお互い影響しあっておりますし、ここから始まって身体の別の場所にも影響を与える場合もあるわけです。

しつこいですが、あくまでもケースバイケースであることを重ねて申し上げておきます。

何かの参考になりましたら幸いです。合掌 道庵  (東京荻窪支部)

posted by ただいま禅の修行中 | 16:04 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
身体を通して考える僕と座禅(その2)

身体を通して考える僕と座禅(その2)

 

 僕の本業は整体師であり、身体と座禅ということを自分なりに考えてみました。何しろまだまだ修行の浅い者ゆえ、そのような者はこのような間違えた考え方をするものだと思ってお聞きください。

 

剣道場の入口 ビルの5階にあります

 

 座禅以前に、僕は人間の身体を会社のようなものだと考えています。そうすると脳とは社長というか経営陣のようなもので、会社全体の方針を決定する役割があると。もちろんそれだけではなく会社にも製造部門や営業部があるように、人間の身体にも胃や腸や手足があって各々の仕事をしているわけです。しかも企業組織として考えると恐ろしく巨大であり、人間の総細胞は一説によると約37兆2000億個、さらに腸の中では腸内細菌が外部の委託業者のように働いていてくれて、これが約100兆個いるといわれています。

 だがしかし、社長はこの社員一人ひとりの様子を把握しているわけではない。でも、現場では熟練の職人のような細胞たちが日夜せっせと自分の仕事をしてくれているわけです。

「腸は第二の脳」という言葉を聞かれた方はいらっしゃるでしょうか。腸内には脳細胞に匹敵する数多くの神経細胞がネットワークを形成しており、独自の活動をしている。それを指して第二の脳と呼んだりするのですが、これは不遜な言い方だと思っております。世の中脳がない生物がゴマンといるわけで、生物の進化の歴史の中では腸と皮膚の原型が最初にできたのであり、脳ができたのはよっぽど後であります。それを後から来たやつが先輩を差し置いて一番偉そうに振る舞う。これは脳、というか意識至上主義があるから生まれた言葉だと思うのです。あたかも意識で知覚できる部分のみが自分のすべてと思いがちですが、知覚できる部分は自分の存在のごくごく一部にすぎないわけであります。ほとんどの部分は知覚できない。知覚できないがもちろん存在して一人の人間が生きている。それが、とくに最近は脳ばっかりがもてはやされて、脳で考えられていることが自分のすべてであるような風潮があると思います。

 そもそも人間の身体とは自然のものであります。自然とはいくら科学が発達しても人知の及ばない存在であります。それを「既に分かっているもの」として扱うか「まだわからないもの」として扱うかでやり方は変わってきます。わかっているのだから、こうすればこうなるはず、と扱ってしまうと、実は違っていて大失敗をすることもあるわけです。わからないなりに、まるごと扱う、これが肝要かと思います。

 で、座禅の話でありますが、僕が最初に老師から伺ったのは座禅とは考えない力を鍛えるものだ、ということでした。考えない、でも自分は存在しているのであり、ひとつにはそれは自分の主導権を意識から知覚できない身体に戻すことなのではないか、と思ったりするわけです。

荻窪剣道場。ここで座ります 

 

 話は飛びますが、意外にも「精神」という言葉が日本語に生まれたのは意外に最近で明治のころで、英語のspiritを翻訳するために新しく作り出された言葉なのだそうです。キリスト教の考えでは肉体とはそれだけでは役に立たないガラクタのようなモノにすぎない。そこに神様から賜ったspirit精神が入ることで初めて役立つものとなる。心身二元論の考えが根底にあるわけです。

 非常な乱暴な考えではありますが、であるなら明治以前の日本人には心と身体を分けるという考え方がなかったのではないかと。心と体は別だ、いや一体だ、という議論ではなくて、心と体を別にするという考え方そのものが理解できないのではなかったかと。そうすると自分の存在を高める方法は、必然的に肉体を入り口にするしかなかったのではないかと思うのです。

 僕は人間の心のありようは、身体の状態に大きく左右されると思っております。自分の意志や物の考えは頭の中だけのものと思う人も多いかと思いますが、僕はそう考えません。

 ごくごく単純な例ですが、今自分のお腹が痛いとしましょう。このタイミングでアンケートが渡される。「日本の未来はどうなると思いますか?」痛いお腹を抱えながら考えると、なんか先行き暗いんじゃないかなぁ、と答えるかもしれません。逆においしいものをたくさん食べて上機嫌なときにアンケート渡されたら、バラ色の未来が待っているなんて答えるかもしれません。これはお腹が痛いという分かりやすい状況ですが、私たちの身体は常に何かしらの状態にあるわけです。なぜだか気分が悪い。そうすると人間とは常に答えを探そうとするクセがありますから、ああ職場の上司の性格が悪いのがストレスなんだ、と原因を探そうとする。僕の仕事でみると、そうではなく、骨格が歪んでいて無理な姿勢をとってるからという場合も多いのです。それを解消すればスッキリする。もちろん上司の性格が悪いのまで解決するわけではないのですが、生活の中のストレスと身体とはお互い影響しあうわけです。

 自分が座っているときも、何か雑念がいろいろ沸いて集中できないときは、気が付くと姿勢が崩れていたりします。それを直すと集中できるようになる。集中しろ集中しろと頭の中で頑張るのではなく、身体の状態を整えることで自分の状態が整う。これはやはり正しい事をやってるんじゃないかと思うわけです。

 なにしろ脳偏重の世の中で、極端な考えには首から下はもうロボットでいいんじゃないか、もっといくと脳内のデータを電子化すれば永遠に生きられるんじゃないか、みたいな事を言う人もいます。これは絶対に許せない考えであります。肉体なんてもういらない、なんて社会になったら僕の仕事はいらなくなって失業してしまうわけで、こんなことを絶対に許すわけにはいかないのであります。

 また話は飛ぶのですが、世の中、道徳観念にもいろいろあって、一方には人間なんぞはロクなものじゃなくて好き勝手にさせると悪いことしかしない。だからこそあれをやっちゃいけない、これをやらなきゃいけない、とルールを強制しないといけない、という考えがあります。他方、これもダライラマの本を読んで僕が勝手に解釈しているのですが、人間にはだれにも良い本質があるのだと。それを仏性というのだと僕は解釈しているのですが、それを磨いて出てくるようにすれば、ああせいこうせい言わなくても、しかるべき時にしかるべき行動をとるようになる。外から強制されなくても自然にそうなるようになる。勝手にそうなる、というのが魅力であります。世の中、いかにも良い事やってますとアピールをする人もいます。かくいう自分もそうだったりします。それがバレバレで後で指摘されてものすごく恥ずかしい思いをすることもあるわけです。座禅を続ければそういうこともなくなるのかと期待しつつ、修行を頑張ろうと思います。

 

合掌 道庵(東京荻窪支部) 

 

posted by ただいま禅の修行中 | 15:53 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
身体を通して考える僕と座禅(その1)

身体を通して考える僕と座禅(その1)

 

 そもそも僕が座禅を始めたきっかけなのですが、2016年11月にダライラマ13世が日本にいらっしゃいました。そして横浜で講演をされるという。その前からダライラマのご本は読んだことがあり、ああ、良いことを言ってらっしゃる、その方が横浜に来る。それで1回生きているのを見てみようと思って行ってみたのです。その時はそんな大層な意気込みで行ったのではなく、年も年だし、もう日本に来られないかもしれないし、一度生きている姿を見ておこうなんて、なんかパンダか何か見に行くようなつもりで行きました。

 で、その時のお話がやっぱり良かった。仏教の考えでいうと世界というのは何か中心があるのではなくて、全てのものがお互いつながりあって影響しあって成り立っているのだと。だから世界を平和にするためには、まずあなたが平和になりなさい。その上で人には思いやりをもって接しなさいというお話だったのですが、これが僕には新鮮で、安心できるお話でした。

 

JR荻窪駅界隈。会社員の方々が行きかいます

 

 世の中、道徳観念といっても色々な考えがあります。一方では自分の事は置いておいて他人のために尽くしなさい、みたいな考えもあるわけです。こんな人が身近にいてくれたらとっても助かる。なにしろ自分は苦しくても他の人を助けてくれる。自己犠牲ですね。結構じゃないか、ありがたいじゃないか、えらいなあ、みたいな感じもします。しかしそれだけで済むのだろうかと思うのです。私は自分を犠牲にして他人のために尽くします、と言いながら無言のうちに「当然、お前もそうするよな?」という視線を送っているような気もするのです。で、見られたほうは「え?ええ、もちろん。あなたも当然そうですよね?」とまたとなりの誰かを見る。そんな相互監視のギスギスした社会になるような感じもするのです。そして行き着く先は、世の中もっと苦しんでいる人がいるのだから自分は人生楽しんじゃいけない、そんな禁欲的な価値観を押し付けてくるイヤ〜な社会が待っているのではないかと。

 それに対して、ダライラマはまずあなたが平和になりなさいとおっしゃった。その上で思いやりをもって人に接しなさいと。全部つながっているのだから、結果としてそれで世の中全体も平和になるのだということです。

 で、じゃあどうしたらこの僕が平和になれるんだといえば、さかんに瞑想をすすめてくるわけです。あのダライラマがおすすめするんだからきっと瞑想って良いんだろう。そう思いました。

 その時、けっこうテレビでもマインドフルネスが良いよ、最近ブームだよ、といろいろやっていました。何しろGOOGLEでも社員教育に取り入れていて、しかも宗教じゃなくて科学的だからとっても安全。いいなコレ。僕もネットでマインドフルネスの道場探してそのうち行ってみようかなあ、なんて思っていました。

荻窪座禅会の看板

 

 そんなことをやっているうちに、たまたま人づてに人間禅のことを聞き、ネットで検索したらウチの近所の荻窪で座禅会をしているという。うわラッキー、座禅って瞑想みたいなヤツなんでしょ? と、そんないきさつでこちらにお世話になるようになったわけです。で、初参加した翌週に香水さんから来週老師がいらっしゃるから会ってみませんか?公案修行もできますよ、とのお話を伺いました。で、老師って誰? 公案って何? と。僕だけじゃなくて現代の日本人だったらそんなもんじゃないかと思うのですが、翌週初めて老師にお会いしたら立派な髭を蓄えたご老人が着物でデンとお座りになってて、うわホンモノだ、こんな人今どき日本にいるんだ、というのが第一印象でした。そして公案修行もぜひやると良いよ、でもやるなら覚悟をきめてやれ! と勧められました。で、すすめられて公案修行も始めたわけです。

 とにかく僕はなりゆきでここまで来ているわけです。今回、お話しを任されて自分の座禅のきっかけを思い返してみたんですが、僕には主体性が無いんですね。ただ流れで今ここにいるのを分かったような言葉で言えば仏縁というのかなと思います。

(あと未だに座禅って何なのかがわからない。ただ言い訳がましく言えば、続けていてそのうちにわかるものなのかどうかもわかりませんが、おそらくやらなければわかることはない、であるなら分かってから始めようと思っていたら一生始めないわけで、そしておそらくやってないよりやってるほうが何か良いんだと思います。)

 ただ、僕は公案修行を始めてから入会、入門まで半年ほど辞退しています。公案修行を始めてすぐに入会を誘われたのですが、考えたうえでやっぱり止めときます、とお答えしたのです。

 というのも、ほかの方の入会式にも立ち会ったのですが、その時「宗教法人人間禅」という宣言を聞いてやはりビクッとしました。そうか宗教なのか、いやそりゃ仏教なんだから仏教って宗教だよな、でも宗教かあ、と。

 今更ながらオウムみたいのだったらどうしよう、とか思うわけです。それと僕の出身校は自由学園といってキリスト教を教育の土台にしている学校です。ですので、おそらく一般的な大多数の日本人よりか宗教というものになじみはありました。

 まずオウムっぽいかどうかは、座禅したあとによくお酒のんでご飯食べながらおしゃべりしたりするし、あと選挙もあったのですが「今回は須藤さんもどこどこの党に1票を・・・」なんてこともありませんでした。そんなだから大丈夫だろうと。

 それはそれとしても、でもやはり宗教というのは重いわけです。何かのカルチャーセンターやお稽古事に入るのとは違う。たとえば何かのお稽古だったら途中で僕はもうこれぐらいでいいです、とか上手にならないじゃないかウソツキと言って辞めることもできるが、宗教とは人間の土台になる物だからそうそうお手軽には扱えないと思ったのです。

 そんなこともあり、入会は辞退したのですが、公案修行はそのまま続けるお許しが出て、半年もそのまま続けていたら、お前そろそろいい加減にしろよみたいな感じになり、自分でも半年続けていて危険な目にもあわず、やはり続けるのは自分のためになってるじゃないかと思って入会(平成30年8月24日)した次第であります。(つづく)

 

合掌 道庵(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 11:13 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
検事と禅(その5)

検事&禅(その5)

 

犯罪者を受け入れる

検察官の心構えとして、この「人を憎まず」ということができなければ、犯人を反省悔悟させることはできない。先ほど、「親心」と言ったが、それは仏教でいう「慈悲」と言い換えてもよいであろう。

老師の言葉を借りていえば、相対の世界にいる限り、自と他が分かれ、相手との比較がでてくる。しかし、これを、坐禅、数息観によって三昧になり、相対から絶対に行けば、自他のあぜが切れて、他人を我が面と見ることができるようになる。これは、検察官だけでなく、社会が犯罪者と接する時にも同じことである。

犯罪者は、罪を償い終わると、いずれ社会に復帰する。そのときに、あの人は殺人者だから、怖い人だ、近くにいてもらっては困るということになると、社会に復帰することはできない。結局居場所がなくなって、また罪を犯すということになってしまう。

保護士の仕事は、刑を終えて社会に復帰した犯罪者の更生を支援することである。ある保護司の方は、口では、地域みんなで仲よくという言葉をよく口にするが、その中には受刑者は含まれていない、犯罪者であるとわかると部屋を貸してくれない、仕事も首になるということを言われたことがある。

 

善福寺公園の桜

 

「罪を憎んで人を憎まず」、この言葉通りにやることは、非常に難しい。自分が禅の修行をし、数息観をすることで道力をつけ、さらに参禅弁道によって道眼をひらくことによって、衆生本来仏なり、自分の中に仏がいる、だれもが本来の面目である、しかし、その本来の面目が雲に覆われているということに気付かなければ、それを取り除こうとすることはできない。いつまでも欲望に振り回され、ひいては犯罪者になってしまう。

他方、犯罪者を憎み続けていては、「他人をわが面とみる」ことができない、これも五蘊にとらわれているということになる。

「人を憎まず」というのは、口で言うのは簡単だが、実際にそれを行動や態度で表すということまでいくには、やはり、原点に戻って「衆生本来仏なり」「他人をわが面とみる」ということが単に頭ではなく、肚の底からそれが体得できていないと無理であろう。

最近、少年院や刑務所で、受刑者に、瞑想、「マインドフルネス」を矯正教育の一環として取り入れはじめている。新聞報道では、アメリカの刑務所では、「瞑想」を取り入れたことで、再犯率が半分に下がったケースもあるということが紹介されている。

瞑想は、結局のところ、坐禅そのものであり、日本の禅の教えが、刑務所でも取り入れられているということである。

これまでは、犯罪者を追及する検察官の立場であったが、これからは、弁護人として、刑事事件に携わりつつ、かつ禅者の立場から、「罪を憎んで人を憎まず」、この言葉を肚の底におきながら、犯罪者の更生にも力を入れていきたいと思っている。(終わり)

 

香水(東京荻窪支部

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検事と禅(その4)

検事&禅(その4)

 

「罪を憎んで人を憎まず」

検事になった当初は、犯罪者はどこか自分とは遠い人、自分の住んでいる世界ではない遠い世界に住んでいる人、検事として犯人を追及する側と犯罪者として追及される側との間には大きな溝があると思っていたが、実際に調べを通じて犯罪者と向き合うようになって思うことは、「犯罪者は決して特別な人たちではない、検事と犯罪者の差は紙一重でしかなく、自分もひょっとしたら犯罪者になったかもしれない。」ということである。

これまで運よく犯罪に手を染めないで生きてこられたが、もし、別の時代、別の親、別の環境に育っていれば私だって殺人者になったかもしれない。たとえていえば、塀の上を歩いている状態で、少し体がゆれて足をふみはずして、刑務所の塀の中に入ってもおかしくないと感じるようになった。

幼少時に満足な食事が与えられない、毎日空腹であった、そのために盗みをするようになり、そのうち強盗までするようになった。あるいは親から暴力を受け虐待を受けてきた、そのために大人になって、今度はわが子に暴力をふるってしまったという場合がある。空腹のためにパン1個を盗んで刑務所に入ったレ・ミゼラブル「ああ無情」の話しのとおりである。

また、犯罪は、いろんな要素が重なり合って実現する。さまざまな諸条件が重なり合い、犯罪という結果を引き起こす。仏経でいえば、因果、あれなければこれなし、縁起といってもよい。

検事も犯罪者も同じ、自分もそうなるかもしれないと思うからこそ、調べをしながら思うのは、二度とこのようなことをしてほしくなく、このようなところに来てほしくないということであった。犯してしまったことは悪いことであり、罪の償いをしなければならないが、やったことをしっかり反省し、もう二度と同じ過ちを繰り返さないでほしいと心から願う。そのためには、時には厳しく叱責、般若の顔をして怒ることもあるが、決して憎んでいるからではなく、むしろ逆に親心からであった。

 

清明庵の前の善福寺公園。摂心の朝のラジオ体操はこの池の前で行う

 

「罪を憎んで人を憎まず」 この言葉の由来は、「孔叢子」(こうぞうし)刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其異、不悪其人」(犯した罪は憎むべきだが、その人が罪を犯すまでには事情もあったのだろうから、罪を犯した人そのものまで憎んではいけないという教え)にある。聖書(ヨハネ福音書8章)にも「罪を憎んでも人を憎まず」という言葉があり、同じ意味と解釈される。

 江戸時代の大岡越前や時代小説「鬼平犯科帳」には、盗賊を捕まえて厳しい処罰を与えながらも、一方で温情を与える人情味豊かな主人公が描かれており、日本社会では、比較的浸透している言葉であろう。

我が国の刑事訴訟法には、「起訴猶予」制度といって、罪を犯したことが明らかでも、犯情や年齢等を考慮して起訴しないことが許されているが、これも、一つの「罪を憎んで人を憎まず」という考え方の現れといってもいいかもしれない。(つづく)

 

香水(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 05:20 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
検事と禅(その3)

検事&禅(その3)

 

仏典に登場する犯罪者アングリマーラ

ブッダの弟子の中に、以下のような、残忍な盗賊アングリマーラという犯罪者がでてくる有名な逸話がある。

「あるところに、アングリマーラという残忍な盗賊がいた。彼は、人々を殺して、殺された者の指で作った首飾りをつけていた。話しでは、999人を殺して、ブッダが千人目とある。そのアングリマーラがいる村へ托鉢に出かけたブッダが、周囲の人が盗賊に殺されるから行かないようと止めたが、黙って進んだ。

アングリマーラを何等恐れていないブッダの姿を見て、ブッダに弟子入りを願って許される。その後、ブッダの弟子として修行を続け、立派な長老になっていった。」

清明庵の入口。誰をも受け入れる禅道場

 

以上の話は、凶悪な犯罪者でも改心すれば仏になれることを教えるためと言われるが、私が注目したのはこの後の部分である。

「しかし、あるとき托鉢に出たアングリマーラは、町の人から石や棒を投げられ、体にあたって血が流れ、服もぼろぼろになった姿でブッダの元に戻った。これは、かつてアングリマーラによって殺された親族たちによるものであった。その姿を見ていたブッダは、『忍受せよ、そなたがその行為の果報として何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう。その行為の果報を現在に受けているのだよ。』と言った。」(原始仏典「中部経典」径茖牽況弌―媾社 中村元監修 参照)

罪を犯したこと自体は、自分の欲や我に取りつかれ、五欲七情に振り回された結果であり、決して許されることではない。ブッダも、アングリマーラが遺族から石や棒で殴られることを「受忍せよ」と言っているということは、罪を償う必要があると示している。

現代社会においては刑罰でもって罪を償う必要がある。

刑罰には、抑止力があると言われる。殺人を犯したら懲役〇年、無期、死刑になりますよ、だからそのようなことはしてはいけません。要するに、殺人を犯しても、何も得なことはありませんよ、だからやめましょうということである。しかし、これでは、社会におけるルールであり決まり事であって、道徳や徳目に類するものとなってしまい、なぜ本当に罪を犯してはいけないのかの理由にはならない。

禅的な見方をすれば、欲望や執着心に取りつかれ、五欲七情に振り回された結果、雲に覆われて本来の自分を見失ってしまった、そのことに気づかせる必要があるからこそ刑罰が必要だといえるのではないだろうか。(つづく)

 

香水(東京荻窪支部

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検事と禅(その2)

検事&禅(その2)

 

人間は生まれながらに共感力を有している

人間には、生まれながらに他者に共感できる能力を有しており、このことは、「社会生物学」における研究結果からも裏付けられている。

乳幼児の社会性の発達に関する最近の研究によると、生後6か月の赤ん坊でも、困っている他人を助ける個体と意地悪な個体とを区別し、後者よりも前者を好むことが明らかにされている。

また、ヒトが他者に対して協力的に振舞うことの基本に、「共感」という感情があるが、共感の脳神経基盤について、以下のような研究結果が判明している。

他個体が痛みを感じているのを見ると、自分も同じように痛みを感じる。これを「情同伝染」といい、これはネズミでも見られるが、ヒトの場合は、他人が第三者からいじめられる、悪口を言われるといった、いわば「社会的な痛み」を感じているのを見たときにも同様に「痛み」を感じる。このときに活性化する脳部位は、単なる「情同伝染」ではなく、高度な情報処理にかかわる「前頭葉」が活動しており、これが「認知的共感」と呼ばれている。「認知的共感」とは、自己と他者は別であることを認識し、自分に起こったことではないことを承知した上で、他者の状態を想起し、同情するというもので、ヒトをヒトたらしめている能力であると言われている。この前頭葉の一部に、先天的あるいは後天的に大きな損傷がある人は、一般の人々と同じようには共感を感じとれず、連続殺人犯などの殺人者の脳は健常者のそれと比較して前頭前野が明らかに不活性であることも脳の画像結果から明らかにされている。

清明庵前の善福寺公園に聳える木

 

このように、人間は生まれながらに他者に共感できる能力を有しているのだが、成長するにつれて、さまざまな欲望や執着心が芽生え、それらの雲に覆われて本来の姿を見失ってしまうのである。(つづく)

 

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posted by ただいま禅の修行中 | 09:43 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
検事と禅 (その1)

検事&禅(その1)

                   

人はなぜ罪を犯すのか?

人は何故、罪を犯すのだろうか。ある人が憎い、殺してやりたいとい気持ちがあったとしても、通常であれば殺害行為には及ばないが、中には、一線を越えて殺人を犯してしまう人がいる。どうなれば一線を越えてしまうのか、なぜ犯罪者になってしまうのか・・・

清明庵茶室の中川香水禅子(東京荻窪支部長・元検事)

約30年弱の検事人生の中で、さまざまな犯罪者と向き合ってきた。殺人、強盗、強姦などの重罪から傷害、窃盗などの軽犯罪、覚せい剤、大麻密輸などの薬物犯罪、脱税、贈収賄などの経済事犯。暴力団組員もいればサラリーマンや万引を繰り返す主婦もいる。

犯罪にいたる原因もさまざまである。金銭欲、性欲などの欲望による犯罪、怒りや憎しみからの犯行、相手を愛するがあまり生じる支配欲求など新聞やワイドショーなどの犯罪ニュースで報道されるとおりである。

これらは、全て人間の欲望、執着心に基づくものである。欲望に振り回され、それに支配され、周囲が見えなくなる、いわば欲望にのっとられた状態といってもよい。自分の欲望のためには相手が傷つこうが、苦しもうが全く意に介さない。常に「自分」のことしかなく、自分以外の他者への尊重ができなくなってしまう。

ある性犯罪の被疑者に、「もし自分の母親が、妻が、娘が同じような被害に遭ったらどう思うか。」と聞くと、「犯人を絶対に許せない」と言うが、自分が犯罪を行っている時には、そんなことを一切忘れてしまっている、それほど欲望に支配されている、禅の世界でいえば、「我」「五欲七情に支配された」状態といえる。

生まれながらの犯罪者という人は一人もいない。どんな親もわが子の幸せを願っているし、ましてやわが子を犯罪者にならせようと思う人などいない。

白隠禅師の坐禅和賛の冒頭にあるように、「衆生本来仏なり」、生まれたときは、みな仏である。自分の中に仏があるように、相手にも仏がある、自分がオンリーワンで大切であるように、相手もオンリーワンで大切である。相手の苦しみや悲しみが自分の苦しみや悲しみであるということに気付きさえすれば、相手を傷つける行為には及ばないはずである。(つづく)

 

香水(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 10:44 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
深い河

 遠藤周作の遺作である。クリスチャンで有名な著者であるが、東洋的な汎神論的な色彩を出している。

 突然、それまでの人生に疑問が生じた登場人物がなぜかインド・ガンジス川へのツアーに参加する。

  会社人間、磯辺は、仕事や業績が全てだと思ってきた。自分が先に死ぬと思っていたら、妻が先立ってしまった。そこで気付く。「生活と人生とは異なるのだ」と。生活のために交わった人は大勢いたが、人生の中で本当にふれあったのは妻と母しかいなかった。数えきれないほどの男女があるのに、人生の同伴者となった縁。それは偶然の出会いではあったが、ずっと以前からの流れの中の必然のようにも思えた。

  沼田は、幼少期を満州大連で過ごす。沼田の唯一の話し相手が捨て犬の「クロ」だった。クロだけが沼田の悲しみを理解した。彼は命あるもの全てとの結びつきに惹かれ、童話作家となる。彼の童話の中では全ての生き物が通じ合っていた。昔の結核が元で沼田は長い闘病生活を送る。そこで彼が本当に対話をしたのは九官鳥だった。一か八かの大手術で生き延びるが、その九官鳥が身代わりに死ぬ。沼田はガンジス河でなら九官鳥に会える気がした。

  事業家木口は、戦時中インパール作戦で死にかける。救ってくれたのは戦友塚田。戦後、二人の死んだ戦友南川の遺族が塚田を訪ねてくる。それから塚田は肝臓が破壊されるまで酒に頼る。実は、彼は木口と生き延びるため、南川の死肉を食べていたのだ。恩人塚田は苦しんで死んだ。木口を救うために人の肉を食べたこと、その罪の意識に勝てなかった。木口の足は再びインドを目指した。

  成瀬美津子は、地方の裕福な家の娘で美貌の持ち主。四谷近くの都心の大学に都心のマンションから通う。男友達にも不自由しなかったが、見合いで有名建築業者の息子と結婚する。ゴルフと車に夢中の堅実な実業家だったが、世間的に真っ当な日々に心が納得せず離婚する。自分はなぜ空虚なのか。世間的には満たされたかに見える人生の中で、人を愛せない自分に物足らなさを思う。大学時代弄んだ同級生大津の噂に足はガンジス川に向かう。 

インドのバナラシは、ガンジス川の聖なる地。沐浴のために多くの人々が訪れ、死ぬために多くの人が来る。死の灰の中で身体を清め、生も死もどんな人生も引き受けてくれる。その象徴が女神チャームンダ像。人々の苦しんできたすべての病気に罹り、コブラやサソリの毒にも耐える。それなのに、喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人に与えている。

  美津子の同級生大津は、権勢家の一族に生まれながら、世俗に興味がない。ただ、母の影響で神と共に生きていることを実感しながら育ってきた。美津子に舞い上がり、幸せな結婚を夢見るが、捨てられる。再び神を実感する彼はフランスに渡り神父を目指す。ところが、彼の神は「はたらき」であり、どこにでも、いつでも傍にいる。そんな考えが汎神論だとして、異端扱いされ、神父になれず、このバナラシで、金のないアウトカーストの死骸運びをしていた。

 そこに美津子たちの日本人ツアー一行がやってくる。その一人の傲慢な振る舞いは、地元民の怒りを買う。逃げ惑う日本人観光客に代わって、大津は地元民からの暴行を引き受ける。そして、あの世へ行こうとしている。もう休みなさいと神から召されるのかのように。

  一方、磯辺、沼田、木口、美津子は、全てを包み込むガンジスの流れに接し、これまでの流される生活ではない、生きる日々を思い出したかのように帰路に就く。

  「酔生夢死」という言葉がある。酔っぱらったように生きて、夢見心地に死んでいく、という意味でもないらしい。

  出典には、「高才明智といえども、見聞に膠するは、酔生夢死して、自ら覚らざるなり」

とある。*膠する(こうする):こだわる

  まじめに授業を受け、多くの読書を重ねるだけでは、いくら才能があっても、本当の人生は味わえませんよとのことらしい。

 我々は、この文明の中で、その文法、作法を所与のものとして理解し、それを絶対として学んで生きて行く。

  ところが、何かのきっかけで、大きな人生の問題にぶつかった時、理屈では超えられないものに気付く。

 ガンジス川に身を浸すことで全てが包み込まれる体験を自覚した成瀬美津子の姿を、我々への一つの答えとして遠藤周作は「深い河」で示したのかもしれない。

 

日峰(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 00:29 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
個人が先か、経験が先か?

 

西田幾多郎が言った、

「個人あって経験あるにあらず、

経験あって個人あるのである」(「善の研究」)

????

 

「自分」が花を見たり、

鳥の声を聞いたり、

していると思っているが、

 

「個人」が花を見ているのではない

眼で花を見た

耳で鳥の声を聞いた

との認識が発生した後に個人が発生するそうな

 

この自分という個人は、

一瞬、一瞬、違った内容として

発生し続けている感覚に過ぎない

決して個人というような確固不動な実体はない

個人は瞬間・瞬間消滅している無数の感覚の流れ

いつも現在進行形の現象ということらしい

 

頬をさすると、確かに個体としての「自分」があるように思うが

しかしこれは「肉の固まり」に過ぎない

 

木や石と違って人間には「意識」がある

意識は鳥の声とか、花の色が、

感覚器官に入ってくる瞬間に起こる

 

すなわち、個人とは、

肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって

成立している幻覚らしい

 

ならば、

我々の眼や耳などを使って

見たり、聞いたりさせているものがあるのだろう

 

道元禅師は

「本来の面目」と題した歌で、

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」

と歌っているけれど

 

日峰(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 19:51 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
父の死

父が息を引き取った

肌の色や表情には何の変化も見られないが

ピクリとも動かず

恐らく意識もない

コンセントの外れた電化製品のようだ

 

生命エネルギーが注入されなくとも

この身体も

やがて因果の流れにより

宇宙の中に同化してゆくのだろう

 

一方、今も

生命エネルギーが注入されている

私の身体も因果の流れの中にある

 

生命エネルギーは

この眼や耳などの五官を使い

意識を生じさせ

私(?)をどのように動かそうとしているのだろう

 

それは心耳を澄ますしかない

この世に存在するものの

あらゆる動きの兆候を感じ

この世に存在するものの一つとして

あらゆる動きと一つになって流れて行く

 

この身体に繋がれた

コンセントの先に何があるのかはわからないが

注入されている

生命エネルギーを濁すことなく

一瞬一瞬を宇宙に投入する

 

その精進の先に生死を超えた何かを

見出せるかも

 

日峰(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 04:15 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
世間の中で生きる

 小さい頃から、いつも世間が念頭にあった。人様に迷惑が掛からないように、みっともないことをしないように、と言い聞かされる。

 この世間意識が我々の行為の規範として作用する。

 その世間を構成している人々はどのような人達なのか。

 表面的には体裁よく友好的に振舞っていても、陰に回ると陰口を叩くような人々が想定されている。だから気をつけろと。世の中は、まことに息苦しく醜悪なものだと脅される。

 自分は違うけれども、世の中がそうだから気をつけなければと、保身と自利に走り、適者生存の原理の中で生き延びることが至上命題になる。そうすると、気付かないうちに、自分も世間を構成していると想定されている通りの人間になっていく。

 ハイデガーは、それを「世人」と呼んだ。

 自分らしさは失われ、誰もが、世間の様子を窺いながら、落伍しないようにと、大衆の中に紛れ込んで生きて行く。

 自分の生き方の道などを考えようとしない在り方を、ハイデガーは「世人」の「頽落」と呼んだ。

 しかし、我々は、どこかで気付いている。

 人は死ぬのである。生まれるときも、頼んだわけでもないのに、この世の中に放り込まれたが、死ぬ時も、突然、この世から連れ去られる。

 そこで思う。世間体に縛られて、ビクビクしながら死んでしまって良いのかと。

 ところが、人は、他のものから切り離された、それ自身だけの独立存在ではあり得ないことはヘーゲルの指摘する通りである。

 いかなる出来事も、理由なくしては生ぜず、それ相当の必然性をもって出現している。過去を悔い、未来に期待しながらも、今を行動することしかできない我々に対して、物事は成るべくして成り、その現実は抗いがたい重みを持つのである。

 それをいたずらに嘆いていても仕方がない。

 であれば、世間の中で、未来の理想を直観し、その理想から逆算される現在の努力を、今実践するしかないことを受け入れる。その理想は恐らく実現しないけれども、日々刻々と未来の理想を修正しつつ、一歩一歩、今できることを行うことが生きることであると得心しなければならないだろう。

 であれば、世間という崖の下で、いつ押しつぶされるかと、ビクビクしながら生きて行くのではなく、世間という崖の存在を認めながらも、崖の下にいる自分という肉体にへばり付いた心を崖の上から見下ろしながら、崖の下で自由に舞い踊らせる本当の自分を育てていく精進こそが生きるということかもしれない。

 

日峰(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 12:25 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
客観的な世界なんてあるのかな?

風に揺れる旗を見て議論していた

旗が動いているのだ、

いや、風が動いているのだ、と。

そこに

どちらでもない

自分の心が動いているのだ、と。

その人が達磨大師の流れを継ぐ

六祖慧能だといわれている

我々は、自分が居なくても

客観的に旗が風に揺れていると思いがちだ

だが待てよ、旗には揺れているという認識はないだろう

 

人が揺れている旗を認識して初めて意味が出る

しかも

自分が見ようとして旗が動くのを見たのではないだろう

眼に動く旗が映じ、

それを風に揺れる旗だと認識して

初めて気づくのだ

認識している自分に

 

動く旗を認識したのは自分の意識ではない

自分の眼に動く旗を映じさせ

風に揺れているのだろうと思わせているのは

この自分の心や身体ではない

 

この不思議な力に気付くことが出発点

 

空気を動かし風にしているエネルギー

旗を形作り揺れているエネルギー

我々の心と身体を動かしているエネルギー

 

全て同じエネルギーだろう

 

このエネルギーが単なる塊に過ぎなかった地球に

緑を生まれさせ

生物を生まれさせ

その過程で人間が生じ

どんどん進化させている

 

風を起こし

旗を動かし

動く旗を認識する

 

全て、このエネルギーの為せる業だ

このエネルギーが宇宙を進化させているのならば

このエネルギーに任せよう

 

自分の外に大きな客観的な世界が存在し

後から小さな自分が生まれ

あっという間に死んでいく

そういう考えは錯覚だ

 

自分が認識して初めて世界は意味を持つ

ただ、自分が自発的に認識したのではない

我々の眼や心を使って認識したのも

このエネルギーなのである

 

この大いなるエネルギーの立場から

自分の心や身体眺めてみる

このエネルギーの流れを邪魔しないように

心や身体を使っていく

 

ここに創造的な人生が生まれるのだろう

 

日峰

 

 

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posted by ただいま禅の修行中 | 22:52 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |