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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
釈尊の呼吸法(2)

 

外国人観光客が減少した狸小路


釈尊の呼吸法(2)

 

大安般守意経に「数息を地と為し、相随を犂と為し、止を軛と為し、観を種と為し、環を雨と為し、浄を行と為す。是の如き六事は乃ち道に随うなり」とあり、呼吸を農作業に譬えています。
 

先ず「数息」についてですが、人間の体表面は畳一枚ほどの表面積で、身体の50兆〜60兆の全細胞のガス交換は肺のガス交換を媒介としております。つまり、酸素を血中(動脈血内)に取り入れ、炭酸ガスを対外に排除します。呼吸を正しくしてやれば血液、細胞が清められ、肺のガス交換が活発に行われ、細胞の活力も高まります。
 

心身を汚すものは第一に外部から侵入するもの、第二に内部から侵入するものがあり、前者は色、声、香、味、触の五境、後者は雑念、妄想であります。外部からのものを遮断するには数息の吸気数息、内からの雑念、妄念は呼気呼吸を用いる。つまり、出る息と共に痛み、悲しみ、妬み、悶え、怨みなどを長呼気、または力強く吐き出す息とともに対外に吐き出してしまいます。一度に処理できないでしょうから何回でも分けて吐き出します。
 

これは欠気一息(かんきいっそく)といって、吾人間禅でも、坐禅工夫に入る前に行うことを奨めております。欠気(かんき)というのは、胸から腹の奥底までたまっている息を全部吐き出し、新たな息を吸い込む深呼吸のことです。
 

その深呼吸のやり方は鼻から空気を腹部、胸部そして肺の尖部のすみずみまで吸い、そのまま息を吐き出さずに肩甲骨を下げると自然に横隔膜が下がるので、肺のすみずみまで空気がしみ通るように感じられます。そして、丹田をへこまさずに、徐々に鼻孔から細く長く吐きつくす。この時、痛み、悲しみ、妬み、悶え、怨みなどの悪感情も一緒に外にはき尽くすのです。これらを2〜3回繰り返すと静坐に入り易いのです。

二番目の「相随」とは上達した数息から息を数えることを放った呼吸のことで、随息観のことです。数息が上達すれば自ずから出息長となり、その上達した数息から数を数えることから意(こころ)を放てば、そのまま相随となります。

「相随は五蘊(ごうん)と六入に随わず、息と意に相随うなり」とあります。五蘊は色、受、想、行、識で物質界とそれを認識する人間の精神作用、六入とは色、声、香、味、触の五境に意識を加えた六識のことです。相随で心身一如となるということです。

三番目の「止」とは坐禅をしていると心は雑念、妄想に悩まされます。それを一境に止めようというものです。止の方法は4つあり、数止・相随止・鼻頭止・息心止で一の数止は数を数えることに意識を集中する方法、二の相随止は意(こころ)と呼吸とを相い随わせることによる方法、三の鼻頭止は入息・出息ともに跡をつけていけば入出息とも鼻頭でそれが停止する、四の息心止は意を呼吸のみに傾ける、それによって止を得るというものです。

このうち鼻頭止というのは古来から「眼半目を以って、鼻端を守る」といって、両眼にて自分の鼻の先を凝視してみるのもよいでしょう。
 

四番目の「観」とは五蘊を観ずることです。呼吸をしていてどうも具合がよくないなと思う時は「観」と身体とがしっくり行っていない。つまり体の調子が調わないとき、あるいは心の在り方がよくないと呼吸も正しくできない。観は観察、思い浮かべることで、こうなっていけばよいとか、こうなっては好ましくないなどと心に計らいがあると、正しい観察ができなくなる。そうしたものを心から取り去って初めて正しい観察が出来きます。観察が正しく行われるには出る息を長くして、心身を整えることが必要で長呼気は自然の同化にもっとも役立つ呼吸です。
 

五番目の「環」とは悪を棄てることです。「意は人の種なり。是を名付けて環となす。環とは意にまた悪を起こさぬをいう」とあります。心と身体はもともと一体のもので、意は人の種とは、意が中心であること。欲望を野放しにしておけば自己の内部から好ましくないものが顔を出そうとしまいます。環とは冷静な自己観察のことで、釈尊は簡潔に悪を起こさぬことだと言われました。体の悪とは殺、盗、婬、悪口、妄言、綺語(かざり言葉)です。心の悪とは貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴です。自己の内部には善いものと悪いものが混在しており、その中の悪いものは容赦なく叩きだしてしまうのが環の目的です。

最後の六番目の「浄」は行であります。数息は大地、相随は犂、止を軛、観を種、環は雨と譬えのに対し、浄は行に譬えました。前の五条件が揃えば、次に実行が必要です。
 

「諸の所貪欲を不浄と為す」と経にあり。浄は念(おもい)を断つことであり、所有なしで大自然の運行と共にあることが浄で、大自然そのものが浄です。 
 

以上 纏めますと眼や耳などから入ってくる外界のわずらわしさを遮断するには数息がいいし、意を斂むるには相随がよい。止は意(こころ)を安定させ、観は不必要な念(おもい)から離れさせ、環は意を一つに向け、浄は以上を実践するという訳です。


釈尊の呼吸法(3)に続く 千葉 金風記  札幌支部

posted by ただいま禅の修行中 | 13:45 | 札幌座禅道場(石狩禅道場) | comments(0) | - |
釈尊の呼吸法

釈尊の呼吸法について

 

これから何回かに分けて釈尊の呼吸法について連載します。

1.大安般守意経(だいあんぱんしゅいきょう)について

大安般守意経(だいあんぱんしゅいきょう)というお経があります。漢訳に翻訳した人は安息国即ち古代イランの帝国パルティア(Prtiy)の安世高という方で、皇子でありながら、父が没した跡を継がず出家し、西暦147年(後漢の桓帝代)当時の支那に至り、一番最初に仏典翻訳に従事し数々の漢訳経典を残した最初の僧であります。

小乗の人であったと見なされていますが、伝承では阿毘達磨(アビダルマ)に関して深い学識を持ち、瞑想にも通じていて、その徳は高かったことから安世高菩薩と尊称されております。

残念ながら、この大安般守意経はサンスクリット語、パーリ語による原本はもとより、チベット語訳も伝わっておりません。

この難解な大安般守意経について、東大医学部で医学研究していた村木宏昌氏が大森曹玄老師の勧めで西洋医学の立場から釈尊の呼吸についてまとめました。読み下し文として宇井伯寿先生の訳経史研究や仏教学に造詣の深い山辺習学先生の指導を受けながら著作し、ついに春秋社から昭和54年2月大安般守意経に学ぶ釈尊の呼吸法が上梓されました。

パーリ語のanapana satiのanapanaを安般と音写し、satiを守意と漢訳し大安般守意経となりました。

anaは入息、apanaは出息という意味で、その原意は出離―出て離れるーが原意、また、satiは念・正念・念行・念住などの意味でありまして、「出る息を主体にした呼吸法に念住すること」となります。

お釈迦様は苦行時代に随分激しく息を止められたことが仏典に記載されています。

強く息を止めるのを怒責(どせき)といいます。この一番の欠点は、血液の循環系を乱すこと、即ち、全身から心臓に送り返さねばならぬ静脈血の流れが妨げられます。脳は強いうっ血と充血で脳圧は上がり、脳細胞は正しい働きができなくなります。

これにきづいた時、釈尊は既に34歳を過ぎておりました。

それに気付いてなさったことは、今までとは逆に呼吸に全力投球されました。いろいろ良い呼吸の中にも短時間で疲れてしまう呼吸があります。それは出入息とも心をこめてする場合です。ラジオ体操の最後で行う深呼吸であれば4〜5回しかしません。これはかなり精神力が要ります。普段は無意識呼吸ばかりしているのに、変わった呼吸をすると大脳皮質の運動野を煩わすからです。

全力投球はやがて改良され、出息は長く、入息は短くというもので、出る息には心を傾けるが、入る息は力を抜くといった調和呼吸です。緊張の連続では疲労が早いのですが、緊張と解放の繰り返しならば持続可能なのです。

息をつとめて長く出すこと、長呼気は脳の静脈血を心臓に速やかに返すはたらきがあります。うっ血を解消し酸素を含んだ動脈血が頭部へ向かってスムーズに流れ、脳細胞のはたらきを良くし、精神活動を活発にします。
釈尊の呼吸法(2)に続く
千葉 金風記 (札幌支部)

posted by ただいま禅の修行中 | 11:21 | 札幌座禅道場(石狩禅道場) | comments(2) | - |
洪川老師の霊験因縁話に似た古典落語肝潰し

洪川老師の霊験因縁話に似た古典落語肝潰し

 

川禅師の因縁話に酷似した古典落語があり、その題目は肝潰しです。

テレビ笑点で御馴染みの6代目三遊亭円楽の師匠が5代目三遊亭円楽、5代目三遊亭円楽の師匠が6代目三遊亭圓生で、6代目三遊亭圓生の名調子が眼に浮かびます。

さて、その肝潰しが先程の阿類の命を救ったという話に似た処があります。

 

粗筋はこうです。

タミという男が病気で寝ている友人を訪ねますと、「この病気は医者でも治せない。恋患いだ」

誰に恋したと聞くと、夢であった呉服屋の娘に恋したという。思わず、噴き出してしまう。

友人が医者に聞いた処、生まれ年と生まれ月の十二支が同じに生まれた女の生き胆を煎じて飲めば何もかも忘れるという。しかし、人を助ける為に別に一人を殺すことは医者には出来ない。

男は帰り道に、母が「妹のお花は年月が揃っているので誰にも言ってはならない」と言っていたことを思い出す。

夜更け、男は包丁を研ぎ、お花の胸に包丁をつきつけ独白します。

「思えば、俺は両親に早いうちに生き別れ、あいつの親爺に引き取られた。

あいつの親爺には自分が盗みを犯した際に代わりに牢獄に入ってくれた。

妹を殺してまであいつを助ける義理はなくても、あいつの親爺がなくなった今、恩を返せるの相手はあいつしかいない。生き胆を飲ませた後は俺もお花の後を追って死のう」

男の涙がお花の顔にかかり、お花は眼を覚ます。

男は素人芝居の稽古で、寝ている女を殺す男を演じる練習をしていたと誤魔化す。

お花は「本当に肝を潰したわ」と驚く。

それを聞いた男は「何、肝を潰した。ああ それでは、薬にならない」

という落ちで終わりであります。

 

まあ、それにしても皆様、禅者は決して肝を潰してはいけません。

洪川禅師は大拙和尚から「危に臨んで変ぜずは真の大丈夫」という七字の語を頂戴し、終生これを護持されました。だから、禅者は如何なる事態に遭遇するとも肝を潰してはいけません。千葉 金風記 (札幌支部)

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posted by ただいま禅の修行中 | 16:54 | 札幌座禅道場(石狩禅道場) | comments(0) | - |
禅の御伽噺(おとぎばなし)熱罵嗔拳(ねつばしんけん)

札幌支部 石狩道場 2020/2/7 10:44

札幌雪祭りの雪像

 

禅の御伽噺(おとぎばなし)熱罵嗔拳(ねつばしんけん)

 

 世間では臨済の独参を室内で訳のわからない禅問答をするという位に思っています。ワイドショーで喝を入れるコーナーがありますが、禅と言えば「喝」と言われたりすることを空想します。

吾人間禅で参禅したこともある居士が、師家の熱罵を大いに誤解して、情緒不安定、癇癪持ちだと評したのには何とも閉口し、この方に何と説明したらよいか思案した経験があります。

 この「熱罵嗔拳」も現代ではもう御伽噺になるのでしょう。

世界の禅者として有名な鈴木大拙氏が洪川禅師の刻苦参究、辛酸苦修の逸話として、次のように述べられております。

 ある時、洪川禅師が大拙和尚の仏光録(仏光国師―円覚寺開山無学祖元の語録)の講座を聴聞していた時、国師が幼時、父に連れられて、山寺に遊びに行った時、僧が「竹影堦を掃うて塵動ぜず、月潭底を穿って水に痕なし」と漢詩を朗々と吟ずるのを聞いて何か心に思い当たるものを覚えたということを述べられた 。

洪川禅師もその講座でその詩を聞いて、忽ち、肺腑に徹し 洞然として胸中に滞っているものが解けていくような気がしました。

 和尚の提唱が済んでから、その室内にはいって見解を呈せんとしたら、和尚は怒り罵った上に洪川禅師を打ちのめした。それからというもの、参禅の度に同一の扱いを受けたと言います。

ここのところは「師即ち洪川禅師亦自ら鞭逼(べんひつ)精励、刻苦一日一日よりも甚だし。晨参暮叩(しんさんぼこう)頭燃救う(はらう)が如し」。と、朝晩二回の参禅に向けて、あたかも頭についた火を必死で消そうとするように真剣に公案を工夫したのであります。そして、拙大拙和尚も「依然として棒喝を捨てず。苟も師の面を見れば、忽ち憤怒を発する事、恰も讐敵の如し」

 洪川禅師に対する大拙和尚も棒喝を捨てず、まるで、親の仇にでもあったように憤怒の表情で大いに鍛え抜かれたのであります。師家の側から見て、熱罵嗔拳は実は慈悲の涙の結晶なのであります。この慈がなかったら、弱り切っている弟子の上に嗔拳を加えることは出来ません。ことに弟子が何かの薄明かりに逢着したという時には、決してこの手段に隙を見せてはいけません。

 (**せずんば啓せず、悱せずんば発せずといいますが、憤とか悱とかは実は分別意識の底を破る鉄槌、即ち有効な手段なのであります。

(**)参考

論語述而編 子曰く、憤せずんば啓せず 悱せずんば発せず。一隅を挙ぐるに三隅を以って反せずんば、即ち復(ふたた)びせず

 通釈宇野哲人氏 

人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地が出来たのを見て、教えを施すべきものである。もし、ある事を研究して、これを知ろうと求めてもまだよく知ることが出来ないで煩悶しているのを見なければ、その意を開いて知ることの出来るようにしてやらない。もし口に言い表そうとしても、言い表すことが出来ないでいるのを見なければ、十分に言い表す事の出来るようにしてやらない。物の道理は類推することの出来るものである。

ちょうど四隅(よすみ)あるものなら 一隅(ひとすみ)を挙げて示せば、他の三隅(みすみ)を知ることが出来るようなものである。もし一隅(ひとすみ)の道理を示しても自ら三隅(みすみ)の道理を考えて語ることができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効がないから、再び告げることはしない。

 解説宇野哲人氏

この章は学者の自ら勉めて教えを受ける素地をつくることを欲したのである。

憤と悱とは誠意が顔色や言辞(ことば)にあらわれたのである。その誠の至るのを待って後これを告げるのである。既にこれを告げれば、必ずその自得するのを待ってまた告げるのである。

憤とかとかはもとより我執とか吾我とかの一念から噴出する心理状態でありますが、これが逆に我執とか吾我を破るところのものになるのであります。

 これを単に分別智といってもよいのですが、打(た)たかれる、それに応じて起つものがあります。これが分別界の常事でこの「応じて起つ」ものがないと霊性の自覚(無相の自己、本来の面目)は成り立ちません。

憤悱は一種の非常心理態でありますが、これがないと「応じて起つもの」の根底、源底に見徹できません。禅者は巧みにこの心理を活用して、有用な人材を育て上げるのであります。

 非常心理態の爆発ということは、人間が仕事をやる上に大切な意義を持つものであります。

よって、禅者の悪罵には大慈悲がこもっているのであります。
千葉金風 記 (札幌支部)

posted by ただいま禅の修行中 | 17:54 | 札幌座禅道場(石狩禅道場) | comments(0) | - |