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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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検事と禅(その3)

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検事&禅(その3)

 

仏典に登場する犯罪者アングリマーラ

ブッダの弟子の中に、以下のような、残忍な盗賊アングリマーラという犯罪者がでてくる有名な逸話がある。

「あるところに、アングリマーラという残忍な盗賊がいた。彼は、人々を殺して、殺された者の指で作った首飾りをつけていた。話しでは、999人を殺して、ブッダが千人目とある。そのアングリマーラがいる村へ托鉢に出かけたブッダが、周囲の人が盗賊に殺されるから行かないようと止めたが、黙って進んだ。

アングリマーラを何等恐れていないブッダの姿を見て、ブッダに弟子入りを願って許される。その後、ブッダの弟子として修行を続け、立派な長老になっていった。」

清明庵の入口。誰をも受け入れる禅道場

 

以上の話は、凶悪な犯罪者でも改心すれば仏になれることを教えるためと言われるが、私が注目したのはこの後の部分である。

「しかし、あるとき托鉢に出たアングリマーラは、町の人から石や棒を投げられ、体にあたって血が流れ、服もぼろぼろになった姿でブッダの元に戻った。これは、かつてアングリマーラによって殺された親族たちによるものであった。その姿を見ていたブッダは、『忍受せよ、そなたがその行為の果報として何年、何百年、何千年、地獄で苦しむであろう。その行為の果報を現在に受けているのだよ。』と言った。」(原始仏典「中部経典」径茖牽況弌―媾社 中村元監修 参照)

罪を犯したこと自体は、自分の欲や我に取りつかれ、五欲七情に振り回された結果であり、決して許されることではない。ブッダも、アングリマーラが遺族から石や棒で殴られることを「受忍せよ」と言っているということは、罪を償う必要があると示している。

現代社会においては刑罰でもって罪を償う必要がある。

刑罰には、抑止力があると言われる。殺人を犯したら懲役〇年、無期、死刑になりますよ、だからそのようなことはしてはいけません。要するに、殺人を犯しても、何も得なことはありませんよ、だからやめましょうということである。しかし、これでは、社会におけるルールであり決まり事であって、道徳や徳目に類するものとなってしまい、なぜ本当に罪を犯してはいけないのかの理由にはならない。

禅的な見方をすれば、欲望や執着心に取りつかれ、五欲七情に振り回された結果、雲に覆われて本来の自分を見失ってしまった、そのことに気づかせる必要があるからこそ刑罰が必要だといえるのではないだろうか。(つづく)

 

香水(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 05:02 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
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