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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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検事と禅(その4)

検事&禅(その4)

 

「罪を憎んで人を憎まず」

検事になった当初は、犯罪者はどこか自分とは遠い人、自分の住んでいる世界ではない遠い世界に住んでいる人、検事として犯人を追及する側と犯罪者として追及される側との間には大きな溝があると思っていたが、実際に調べを通じて犯罪者と向き合うようになって思うことは、「犯罪者は決して特別な人たちではない、検事と犯罪者の差は紙一重でしかなく、自分もひょっとしたら犯罪者になったかもしれない。」ということである。

これまで運よく犯罪に手を染めないで生きてこられたが、もし、別の時代、別の親、別の環境に育っていれば私だって殺人者になったかもしれない。たとえていえば、塀の上を歩いている状態で、少し体がゆれて足をふみはずして、刑務所の塀の中に入ってもおかしくないと感じるようになった。

幼少時に満足な食事が与えられない、毎日空腹であった、そのために盗みをするようになり、そのうち強盗までするようになった。あるいは親から暴力を受け虐待を受けてきた、そのために大人になって、今度はわが子に暴力をふるってしまったという場合がある。空腹のためにパン1個を盗んで刑務所に入ったレ・ミゼラブル「ああ無情」の話しのとおりである。

また、犯罪は、いろんな要素が重なり合って実現する。さまざまな諸条件が重なり合い、犯罪という結果を引き起こす。仏経でいえば、因果、あれなければこれなし、縁起といってもよい。

検事も犯罪者も同じ、自分もそうなるかもしれないと思うからこそ、調べをしながら思うのは、二度とこのようなことをしてほしくなく、このようなところに来てほしくないということであった。犯してしまったことは悪いことであり、罪の償いをしなければならないが、やったことをしっかり反省し、もう二度と同じ過ちを繰り返さないでほしいと心から願う。そのためには、時には厳しく叱責、般若の顔をして怒ることもあるが、決して憎んでいるからではなく、むしろ逆に親心からであった。

 

清明庵の前の善福寺公園。摂心の朝のラジオ体操はこの池の前で行う

 

「罪を憎んで人を憎まず」 この言葉の由来は、「孔叢子」(こうぞうし)刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其異、不悪其人」(犯した罪は憎むべきだが、その人が罪を犯すまでには事情もあったのだろうから、罪を犯した人そのものまで憎んではいけないという教え)にある。聖書(ヨハネ福音書8章)にも「罪を憎んでも人を憎まず」という言葉があり、同じ意味と解釈される。

 江戸時代の大岡越前や時代小説「鬼平犯科帳」には、盗賊を捕まえて厳しい処罰を与えながらも、一方で温情を与える人情味豊かな主人公が描かれており、日本社会では、比較的浸透している言葉であろう。

我が国の刑事訴訟法には、「起訴猶予」制度といって、罪を犯したことが明らかでも、犯情や年齢等を考慮して起訴しないことが許されているが、これも、一つの「罪を憎んで人を憎まず」という考え方の現れといってもいいかもしれない。(つづく)

 

香水(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 05:20 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
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