検事&禅(その5)
犯罪者を受け入れる
検察官の心構えとして、この「人を憎まず」ということができなければ、犯人を反省悔悟させることはできない。先ほど、「親心」と言ったが、それは仏教でいう「慈悲」と言い換えてもよいであろう。
老師の言葉を借りていえば、相対の世界にいる限り、自と他が分かれ、相手との比較がでてくる。しかし、これを、坐禅、数息観によって三昧になり、相対から絶対に行けば、自他のあぜが切れて、他人を我が面と見ることができるようになる。これは、検察官だけでなく、社会が犯罪者と接する時にも同じことである。
犯罪者は、罪を償い終わると、いずれ社会に復帰する。そのときに、あの人は殺人者だから、怖い人だ、近くにいてもらっては困るということになると、社会に復帰することはできない。結局居場所がなくなって、また罪を犯すということになってしまう。
保護士の仕事は、刑を終えて社会に復帰した犯罪者の更生を支援することである。ある保護司の方は、口では、地域みんなで仲よくという言葉をよく口にするが、その中には受刑者は含まれていない、犯罪者であるとわかると部屋を貸してくれない、仕事も首になるということを言われたことがある。
善福寺公園の桜
「罪を憎んで人を憎まず」、この言葉通りにやることは、非常に難しい。自分が禅の修行をし、数息観をすることで道力をつけ、さらに参禅弁道によって道眼をひらくことによって、衆生本来仏なり、自分の中に仏がいる、だれもが本来の面目である、しかし、その本来の面目が雲に覆われているということに気付かなければ、それを取り除こうとすることはできない。いつまでも欲望に振り回され、ひいては犯罪者になってしまう。
他方、犯罪者を憎み続けていては、「他人をわが面とみる」ことができない、これも五蘊にとらわれているということになる。
「人を憎まず」というのは、口で言うのは簡単だが、実際にそれを行動や態度で表すということまでいくには、やはり、原点に戻って「衆生本来仏なり」「他人をわが面とみる」ということが単に頭ではなく、肚の底からそれが体得できていないと無理であろう。
最近、少年院や刑務所で、受刑者に、瞑想、「マインドフルネス」を矯正教育の一環として取り入れはじめている。新聞報道では、アメリカの刑務所では、「瞑想」を取り入れたことで、再犯率が半分に下がったケースもあるということが紹介されている。
瞑想は、結局のところ、坐禅そのものであり、日本の禅の教えが、刑務所でも取り入れられているということである。
これまでは、犯罪者を追及する検察官の立場であったが、これからは、弁護人として、刑事事件に携わりつつ、かつ禅者の立場から、「罪を憎んで人を憎まず」、この言葉を肚の底におきながら、犯罪者の更生にも力を入れていきたいと思っている。(終わり)
香水(東京荻窪支部)