世間の中で生きる

  • 2020.01.10 Friday
  • 12:25

 小さい頃から、いつも世間が念頭にあった。人様に迷惑が掛からないように、みっともないことをしないように、と言い聞かされる。

 この世間意識が我々の行為の規範として作用する。

 その世間を構成している人々はどのような人達なのか。

 表面的には体裁よく友好的に振舞っていても、陰に回ると陰口を叩くような人々が想定されている。だから気をつけろと。世の中は、まことに息苦しく醜悪なものだと脅される。

 自分は違うけれども、世の中がそうだから気をつけなければと、保身と自利に走り、適者生存の原理の中で生き延びることが至上命題になる。そうすると、気付かないうちに、自分も世間を構成していると想定されている通りの人間になっていく。

 ハイデガーは、それを「世人」と呼んだ。

 自分らしさは失われ、誰もが、世間の様子を窺いながら、落伍しないようにと、大衆の中に紛れ込んで生きて行く。

 自分の生き方の道などを考えようとしない在り方を、ハイデガーは「世人」の「頽落」と呼んだ。

 しかし、我々は、どこかで気付いている。

 人は死ぬのである。生まれるときも、頼んだわけでもないのに、この世の中に放り込まれたが、死ぬ時も、突然、この世から連れ去られる。

 そこで思う。世間体に縛られて、ビクビクしながら死んでしまって良いのかと。

 ところが、人は、他のものから切り離された、それ自身だけの独立存在ではあり得ないことはヘーゲルの指摘する通りである。

 いかなる出来事も、理由なくしては生ぜず、それ相当の必然性をもって出現している。過去を悔い、未来に期待しながらも、今を行動することしかできない我々に対して、物事は成るべくして成り、その現実は抗いがたい重みを持つのである。

 それをいたずらに嘆いていても仕方がない。

 であれば、世間の中で、未来の理想を直観し、その理想から逆算される現在の努力を、今実践するしかないことを受け入れる。その理想は恐らく実現しないけれども、日々刻々と未来の理想を修正しつつ、一歩一歩、今できることを行うことが生きることであると得心しなければならないだろう。

 であれば、世間という崖の下で、いつ押しつぶされるかと、ビクビクしながら生きて行くのではなく、世間という崖の存在を認めながらも、崖の下にいる自分という肉体にへばり付いた心を崖の上から見下ろしながら、崖の下で自由に舞い踊らせる本当の自分を育てていく精進こそが生きるということかもしれない。

                                         日峰

コメント
コメントする








    

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
<< February 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM