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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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座禅とキリスト教

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 擇木道場の風印です。
 最近かなり前に録画してあった、Eテレの『こころの時代〜宗教・人生〜』を見ました。

 

 『外国人収容者と共にありて』は、牧師の柚之原寛史さんのお話でした。


 『私自身が醜い心になっていたから全てが醜く見える。裁きの目です。 何をするにしても人の粗探し。 周りの人が自分を痛めつけて苦しめていたのではなくて、私自身の思いが自分自身を苦しめて痛めつけていた。』(注1)
 私は直ぐに人を批判する癖がありますので、それは私自身の心が醜いせいだと反省しました。

 

 『「善きサマリア人のたとえ」では、強盗に襲われ、瀕死の重傷を負ったユダヤ人を、同じユダヤの神官や神殿に仕える者たちが見て見ぬふりをして素通りしていく中、ユダヤ人に差別されていたサマリア人だけが救います。』(注2)
 汝の隣人を愛せよとは、自分達の仲間だけを愛するというような『仕切りのある愛ではなくて、それを取り外した、いかなる人に対しても愛し、その愛を行いなさい。行動としてアクションを起こしなさい、というふうにイエスは語ったわけなんです。』(注3)
 隣人とは同胞のことだけを言うのではないかと誤解していました。キリスト教も面白いですね。

 

 マルコによる福音書2章17節によると、イエスは『私がきたのは義人(善人)を招くためではなく罪人を招くためである。』(注4)と語ったそうです。
 親鸞聖人の悪人正機説みたいだと思いました。

 

 

 『長崎の祈り―水がめを運ぶ人々に導かれて』は、カトリック長崎大司教区司祭の古巣馨さんのお話でした。


 『人間関係がですね切れていくのは、ゆるしがないからなんですよね。ゆるしがあればまた元に戻ることができます。本当にゆるしがあればそれまでどんなに難しい状況であっても、また絆を結び直すことができます。イエスは十字架にかけられた時に「父よ、この人たちをゆるしてください。何をしているのかわかっていないんです」って。十字架上の言葉は、ゆるしの言葉だったんです。そしてゆるされた人は救われた人です。ゆるされないから救われないんです。ゆるしがないところには憎しみが生まれますよ。憎しみはまた復讐となって連鎖していきます。救いの一番の泉は、そこに「ゆるしがある」ということです。』(注5)
 私はつまらないことにこだわって怒ったりイライラしていたのですが、そんなとらわれをゆるしてみれば、つまらないこだわりなどどうでもよくなってくると感じているところです。

 

 『私もせっかく生まれたんだから、生きがいを持って生きたい。そう言って自分の都合を言っているときは、とっても生きづらかったです。でもこの頃思うんです。私の都合でなくて神様の都合をいつも考えようって。神様の都合があるから、私はここにいるんだと思うんです。神父さん、私には都合はなかとです。あなたの都合の良い時に来てください。』(注6)
 これは、仏教に言う無我を言っているのではないかと思いました。

 

 座禅もキリスト教もどこか通じるところがあると思えて、とても面白い番組でした。

 

合掌 風印 拝(東京支部) #青年部

 

注1〜4)NHKEテレ『こころの時代〜宗教・人生〜 外国人収容者と共にありて』,2018.9.30放送

 

注5〜6)NHKEテレ『こころの時代〜宗教・人生〜 長崎の祈り―水がめを運ぶ人々に導かれて』,2019.9.8放送

 

posted by ただいま禅の修行中 | 23:12 | 東京支部 | comments(0) | - |
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