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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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個人が先か、経験が先か?

 

西田幾多郎が言った、

「個人あって経験あるにあらず、

経験あって個人あるのである」(「善の研究」)

????

 

「自分」が花を見たり、

鳥の声を聞いたり、

していると思っているが、

 

「個人」が花を見ているのではない

眼で花を見た

耳で鳥の声を聞いた

との認識が発生した後に個人が発生するそうな

 

この自分という個人は、

一瞬、一瞬、違った内容として

発生し続けている感覚に過ぎない

決して個人というような確固不動な実体はない

個人は瞬間・瞬間消滅している無数の感覚の流れ

いつも現在進行形の現象ということらしい

 

頬をさすると、確かに個体としての「自分」があるように思うが

しかしこれは「肉の固まり」に過ぎない

 

木や石と違って人間には「意識」がある

意識は鳥の声とか、花の色が、

感覚器官に入ってくる瞬間に起こる

 

すなわち、個人とは、

肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって

成立している幻覚らしい

 

ならば、

我々の眼や耳などを使って

見たり、聞いたりさせているものがあるのだろう

 

道元禅師は

「本来の面目」と題した歌で、

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」

と歌っているけれど

 

日峰(東京荻窪支部

posted by ただいま禅の修行中 | 19:51 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
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