個人が先か、経験が先か?

  • 2020.01.19 Sunday
  • 19:51

 

西田幾多郎が言った、

「個人あって経験あるにあらず、

経験あって個人あるのである」(「善の研究」)

????

 

「自分」が花を見たり、

鳥の声を聞いたり、

していると思っているが、

 

「個人」が花を見ているのではない

眼で花を見た

耳で鳥の声を聞いた

との認識が発生した後に個人が発生するそうな

 

この自分という個人は、

一瞬、一瞬、違った内容として

発生し続けている感覚に過ぎない

決して個人というような確固不動な実体はない

個人は瞬間・瞬間消滅している無数の感覚の流れ

いつも現在進行形の現象ということらしい

 

頬をさすると、確かに個体としての「自分」があるように思うが

しかしこれは「肉の固まり」に過ぎない

 

木や石と違って人間には「意識」がある

意識は鳥の声とか、花の色が、

感覚器官に入ってくる瞬間に起こる

 

すなわち、個人とは、

肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる経験によって

成立している幻覚らしい

 

ならば、

我々の眼や耳などを使って

見たり、聞いたりさせているものがあるのだろう

 

道元禅師は

「本来の面目」と題した歌で、

「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」

と歌っているけれど

 

日峰(東京荻窪支部

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