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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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声を出すということ

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シリーズ「女性と禅」 第3回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。
禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

「禅は無功徳」といいますし、座禅に何かを求めているつもりもありません。

しかし、擇木道場に通い始めて2年目に入った現在、思い返してみると私のなかに思わぬ変化があったことも事実です。

 

私は「声を出す」「話をする」ということに非常に不安と恐怖を抱いてしまいます。

女性部の静座会(座禅会)では静座(座禅)後に自己紹介や近況報告をする場面があります。

さらに参禅では公案を述べるのにも声を出さなければなりませんし、摂心会では会歌斉唱があったり、食事で食前の文や食畢の偈を唱えるのにも声を出します。

懇親会での歌なんて恐怖でしかありません。

 

今でも声を出すということに対して苦手意識はありますが、それでもその苦手意識が少し薄れたような感じがあります。

そして「話をしても大丈夫なのかもしれない」という安心感のようなものが芽生え始めたのではないかとも感じています。

 

安心感というよりもある意味「諦め」と言ったほうがよいかもしれません。

禅をとるか、それとも苦手なことから逃げるかを選択するときに禅を続けることを選んだということです。

以前の私だったら迷うことなく「声を出す・話をする」という苦手なことから全力で逃げていたはずです。

でも、逃げずに座禅を続けるなら声を出すしかないし、話をするしかありません。

そういう状況に自らを追い込むことができたとも言えそうです。

 

なぜ苦手なことより座禅を選んだのかは自分でもよくわかりません。

そのメカニズムがわかれば他の苦手克服にも役立つのではないかと思うのですが。

 

今でも大きな声を出すことは上手くできません。

ただ、声を出すコツのようなものがなんとなくですがわかってきたように思います。

これは法定のおかげもあると私は考えています。

法定は東京支部の摂心会で作務としてしているだけですが、腹の底から声を出すということを初めて経験したことで、のどの使い方を体がわかってくれたのかもしれないと感じています。

法定は数息観ではありませんが、やはり禅なのだなと思えます。

動きや呼吸のひとつひとつを意識して、その動きや呼吸だけに全力を尽くす。

動きはまったく違うけれどお茶のお点前と似ているとも感じます。

ということはつまり、いつもは忘れてしまいがちだけれど、日常のすべてが禅なのでしょう。

 

日常のひとつひとつに全力を尽くすことはできていないけれど、苦手なことも多いけれど、それでも毎日少しでも数息観をして、できるだけ一炷香坐る。

そんな日々をこれからも過ごしていきたいと思っています。

(掲載に際し、一部修正を加えました)

  合掌 翡翠(東京支部) (あけぼの第25号より抜粋) #女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 20:39 | 東京支部 | comments(0) | - |
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