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≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (8)

(8)指月の著作

 

 大正13年、空穂は文芸雑誌『国民文学』を創刊した。アメリカ在住の指月にも贈ると、指月は入会するといって、何人分にかにあたる会費と、原稿としての詩を送って来た。

 

 

 【私は指月の詩なるものを、初めて目にした。詩だけでなく、短歌一首でも、いやしくも作品と称しているものは、かつて見たことがなかったのである。したがって危惧の念を抱いて、あまりまずいと困るがなあと思って読んだのであったが、読み終わると驚嘆した。案外にも佳いものだったのである。一口に言うと、純粋な、詩情のゆたかな、一抹の哀感の伴ったものであった。殊に私を魅した点は、ゆったりと落ちついてはいるが、割り切ってはず、起伏緩急をもった連のつらね方であった。伏と言い緩というべき、遊びに類した連は、自然な、わざとでない連句をもちいていて、うまいなあと感心させ、読み返えさせるのであった。表現形式は当時流行していた七五調で、四行一連であった。指月がいつこのような表現技法を身につけたのか、私には見当もつかなかった。彼は生来歌好きであったと見え、それと口には出さなかったが、好んで歌人に接近していた。むろん歌誌歌集は読んでおり、労苦して自得したものと思われる。しかし、詩の連と連との続きの上に、信念を持った、落ちついての起伏・緩急は、私には指月独自のものに思われた。これは、よる所があるとすれば、禅書から暗示を得たのではないかと想像した】と空穂は評している。

 

 大正3年から6年までの3年間、絶えることなく続いた詩を、指月は集にするように空穂に依頼した。空穂は言われるままに一集として『郷愁』と題し、指月のその頃の生活を書いて、序として刊行した。読んでくれそうな人にはもれなく寄贈したが、寄贈先からの反響も聞くを得なかった。後年指月が再々度の帰国の折、古本屋で案外高い値がついた『郷愁』をみつけたという。古本屋の高い値というのが唯一の反響だったのであると記されている。

 

 

 また、再々度の帰国の折、空穂は“ぼくの書くもの稿料になりませんかねえ?なりそうだったら、周旋していただきたいものだが”との指月の依頼をうけた。貯金が乏しくなって不安を感じたためのことであった。空穂は村松梢風に紹介した。梢風は幸いにも、指月という人間にも、その随筆的作品にも、かなり興味を感じて、めぼしい編集者に紹介周施し、後援の労を惜しまなかったという。梢風の興味は、指月の精神的視野がひろく、またその感じてとらえている材料が、完全に指月独自のもので、清新で、みずみずしく、うぶなところにあったらしい。指月の随筆は、読者に受けるのもと認められ、毎月2・3の営業雑誌に連載された。それらは『弗の女人像』『アメリカ夜話』と題する単行本にもまとめられ刊行されたという。私は古い『国民文学』や、これらの著書を探してみたが、いまや手がかりさえも得られないのであった。

 

  閑徹(横浜支部

posted by ただいま禅の修行中 | 21:07 | 横浜支部 | comments(0) | - |
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