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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
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慧玉(房総支部)〜私と禅〜

シリーズ「女性と禅」 第7回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

「坐禅を始めてどの位ですか?」という質問には、いつも戸惑ってしまう。

長男が生まれた年に入門したと記憶しているので、もう40年以上も経過したことになるのだが、子育て、仕事を理由にたいした修行もせずに20年以上を過ごしていたように思う。

真剣に修行に向き合うようになったのは、磨甎庵老師が亡くなられる5年くらい前からか・・・。

その頃、たまたま老師の食事係を任されることになり、やっと道場が生活の中心に据えられるようになったように思う。

 

磨甎庵老師が帰寂され、金峰庵老師も遠くに行かれ、深い悲しみを感ずる日々もあった。

今は、ふたたび前を向いて歩む力を自分の内に感じている。

多くの道友に支えられ、勇気づけられ今があると思う。

 

今回『あけぼの25号』に向けて、「禅と私」をふり返ってみようと思ったが、なかなか言葉には表し切れない。

そこで、最近読んだ『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)の言葉を借りながら、今の心境について書いてみたいと思う。

 

『君たちはどう生きるか』は1937年(昭和12年)に発行されたにもかかわらず、戦後も売れ続け、今、ふたたび脚光を浴びている名著である。

書店の新刊コーナーに山積みされ、学校の同僚の机の上にも無造作に置かれている。

 

主人公のコペル君は中学二年生。

叔父さんに悩みを打ちあけ、人間として成長していく話の展開になっている。

一部抜粋する。

 

正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし・・・という人があったら、それは、たしかに申し分のない人だろう。こういう円満な人格者なら、人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打ちのある人だ。

しかし、―――君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるんだ。もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれば立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、――コペル君、いいか、―――それじゃ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。

世間の目よりも何よりも、君自信がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。

そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。 いいことをいいことだとし、 悪いことを悪いことだとし、

一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

 

若い頃の私を振り返ってみると、多様な価値観の狭間を揺れ動きながら、どこに信ずべきものがあるのか確信がもてず、自信を持って自分の生き方を決めかねている不安定さがいつもあったように思う。

 

禅と出会い、細々とではあるが禅の修行を続け、参禅弁道により自己と向き合い続けてきた結果、今、恥ずかしいことも誇れることも特にないが、隠すものとてなく、その時その時自分の思いを屈託なく素直に出し、自由に生きている自分がいることに気付く。

心が開かれ清々としている。

やっと自信を持って生きられるようになった。

そんな自分に気付くのである。

 

叔父さんがコペル君に「いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない」といったことの深い意味が納得できるのである。

 

『君たちはどう生きるか』では、さらにコペル君が親友の<いじめ>に遭遇し、上級生から<いじめ>を受けたら、みんなで立ち向かおうと約束しておきながら、いざというときに出ていく勇気を持てなかったときの苦しみを取り上げている。叔父さんはコペル君に言う。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」・・・・・・

 僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。

 もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。・・・・・ 

 しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。人間である限り、過ちは誰にだってある。・・・・

お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲みだしてゆこうではないか、―――正しい道に歩いてゆく力があるから、今の苦しみもあるのだと。

 

自分は取り返しのつかないことをしてしまったと悔い、反省することはある。

気持ちがへこむこともある。

 

気持ちを切り替え勇気を出して一歩踏み出すと、自分を苦しめていたのは悔恨そのものではなく、ひと目を気にする自分こそが大きな問題であったことに気付く。

自分の気持を切り替え、思い切りのよい一歩を踏み出すことは、新しい自分の始まりになる。

失敗し、反省し、悔恨の情から新しい気付きがあり、生き直すことこそ人間らしい生き方なんだと思う。

 

私が大好きだった故緝煕庵老禅子は、「人間はよく間違えることがあるの」とおっしゃられ、《裏をみせ表を見せて散るもみじ》の句をよく口にされた。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」という言葉は、緝煕庵老禅子の飾らない真摯な人柄と共に、老禅子の人間としての気品を思い出させるものである。

 

総裁老師様から、「慧玉さんは修行をやめないで続けているのが偉い」と言われたことがある。

やっと、その意味が分かるようになってきた。

今、禅と出会った喜びを深く嚙みしめている。

 

『君たちはどう生きるか』は最後、次の文で締めくくられている。

 

そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。

君たちは、どう生きるか。

 

  合掌 慧玉(房総支部)(あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

 

引用文献:「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著

posted by ただいま禅の修行中 | 22:52 | 房総支部 | comments(0) | - |
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