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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
Facebookに浸り込む−瞬時・瞬時を切に生きる

この2日間はFacebookに浸り込んでいました。

パソコンではなぜか毎回ログインのコードを新規設定しなければならず、不便でした。

スマホで見られるようになり、6人くらいの方とコメントのやりとりができました。

気になるもので、しょっちゅう開いています。

皆さん、得意の場面をお持ちですが、実に多彩な方もいます。

その方の生活、性格、人柄すべてが見えるようです。

露堂々です。

私もブログで恥ずかしげもなく、生活行動を晒しているほうです。

あと十年ちょっと。

これしかないとの開き直りか?

 

 

山小屋で今朝も抹茶を点てました。

Facebookもそこそこにして日常に戻ります。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 14:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
慧玉(房総支部)〜私と禅〜

シリーズ「女性と禅」 第7回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

「坐禅を始めてどの位ですか?」という質問には、いつも戸惑ってしまう。

長男が生まれた年に入門したと記憶しているので、もう40年以上も経過したことになるのだが、子育て、仕事を理由にたいした修行もせずに20年以上を過ごしていたように思う。

真剣に修行に向き合うようになったのは、磨甎庵老師が亡くなられる5年くらい前からか・・・。

その頃、たまたま老師の食事係を任されることになり、やっと道場が生活の中心に据えられるようになったように思う。

 

磨甎庵老師が帰寂され、金峰庵老師も遠くに行かれ、深い悲しみを感ずる日々もあった。

今は、ふたたび前を向いて歩む力を自分の内に感じている。

多くの道友に支えられ、勇気づけられ今があると思う。

 

今回『あけぼの25号』に向けて、「禅と私」をふり返ってみようと思ったが、なかなか言葉には表し切れない。

そこで、最近読んだ『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)の言葉を借りながら、今の心境について書いてみたいと思う。

 

『君たちはどう生きるか』は1937年(昭和12年)に発行されたにもかかわらず、戦後も売れ続け、今、ふたたび脚光を浴びている名著である。

書店の新刊コーナーに山積みされ、学校の同僚の机の上にも無造作に置かれている。

 

主人公のコペル君は中学二年生。

叔父さんに悩みを打ちあけ、人間として成長していく話の展開になっている。

一部抜粋する。

 

正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし・・・という人があったら、それは、たしかに申し分のない人だろう。こういう円満な人格者なら、人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打ちのある人だ。

しかし、―――君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるんだ。もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれば立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、――コペル君、いいか、―――それじゃ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。

世間の目よりも何よりも、君自信がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。

そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。 いいことをいいことだとし、 悪いことを悪いことだとし、

一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

 

若い頃の私を振り返ってみると、多様な価値観の狭間を揺れ動きながら、どこに信ずべきものがあるのか確信がもてず、自信を持って自分の生き方を決めかねている不安定さがいつもあったように思う。

 

禅と出会い、細々とではあるが禅の修行を続け、参禅弁道により自己と向き合い続けてきた結果、今、恥ずかしいことも誇れることも特にないが、隠すものとてなく、その時その時自分の思いを屈託なく素直に出し、自由に生きている自分がいることに気付く。

心が開かれ清々としている。

やっと自信を持って生きられるようになった。

そんな自分に気付くのである。

 

叔父さんがコペル君に「いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない」といったことの深い意味が納得できるのである。

 

『君たちはどう生きるか』では、さらにコペル君が親友の<いじめ>に遭遇し、上級生から<いじめ>を受けたら、みんなで立ち向かおうと約束しておきながら、いざというときに出ていく勇気を持てなかったときの苦しみを取り上げている。叔父さんはコペル君に言う。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」・・・・・・

 僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。

 もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。・・・・・ 

 しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。人間である限り、過ちは誰にだってある。・・・・

お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲みだしてゆこうではないか、―――正しい道に歩いてゆく力があるから、今の苦しみもあるのだと。

 

自分は取り返しのつかないことをしてしまったと悔い、反省することはある。

気持ちがへこむこともある。

 

気持ちを切り替え勇気を出して一歩踏み出すと、自分を苦しめていたのは悔恨そのものではなく、ひと目を気にする自分こそが大きな問題であったことに気付く。

自分の気持を切り替え、思い切りのよい一歩を踏み出すことは、新しい自分の始まりになる。

失敗し、反省し、悔恨の情から新しい気付きがあり、生き直すことこそ人間らしい生き方なんだと思う。

 

私が大好きだった故緝煕庵老禅子は、「人間はよく間違えることがあるの」とおっしゃられ、《裏をみせ表を見せて散るもみじ》の句をよく口にされた。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」という言葉は、緝煕庵老禅子の飾らない真摯な人柄と共に、老禅子の人間としての気品を思い出させるものである。

 

総裁老師様から、「慧玉さんは修行をやめないで続けているのが偉い」と言われたことがある。

やっと、その意味が分かるようになってきた。

今、禅と出会った喜びを深く嚙みしめている。

 

『君たちはどう生きるか』は最後、次の文で締めくくられている。

 

そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。

君たちは、どう生きるか。

 

  合掌 慧玉(房総支部)(あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

 

引用文献:「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著

posted by ただいま禅の修行中 | 22:52 | 房総支部 | comments(0) | - |
最近のTVからー瞬時・瞬時を切に生きる

最近NHK以外は見ない。

『半沢直樹』で民放を見直した。

強烈なセリフの応酬、IT業界の熾烈な業務と実情、よく練られた気持ちの込められた内容だ。

『世界ふしぎ発見!』

草野さん、黒柳さん共に老けました。

日本古代史につられて見た。

私も老けているのでしょう。

『ディア・ペイシェント』も厳しい内容だ。

コロナで、いい加減なものは、見向きもされない。

本物がウケる。

禅で座り込むことが求められる。

質感になるが、重みが感じられるということになろう。

自分でも感じられるくらいに座り込みたい。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 18:45 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
結願は旅程絞りぬ麦の秋 温雄|四季折々(15)

結願は旅程絞りぬ麦の秋  井内 温雄

 

全行程千キロを超える四国八十八か所巡礼での句である。

一度では到底回り切れないから、何回かに分ける。

今までは「先は長い。」とばかり多少緩みがあったかもしれない。

しかし今回は違う。

行き残したお寺をすべて回りきる旅だ。

そこで、道筋、日程をギュッと絞り込み、念入りに計画を立てた。

「絞りぬ」で結願を迎える強い気持ちを表した。

麦の収穫のように、大きな功徳があるに違いない。

(「俳林」14号より)

 

飯田幽水(中央支部) #俳句

 

posted by ただいま禅の修行中 | 15:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
茶の湯の現状(2)|再録「禅と茶道」 輯熙庵内田慧純老禅子

 

(2)茶の湯の現状

 本来、茶の湯は、決して日常生活と縁のないぜいたくな遊芸ではありません。道具の多少や華美な衣装を誇る場でもありません。道具はありあわせ、衣服は清潔であれば十分です。茶室がなければならないことでもありません。利休当時の茶の湯の精神が失われてしまうことを恐れて、心ある人びとが、徳川時代以降引き続き、「利休に帰れ」という提言主張をしておりますが、現代においてはその必要がとくに強く感じられます。

 現代の日本は、物質的繁栄を追い求め、そこに価値を見出している時代で、その上に人間の幸せが築かれると考えております。たしかに、その成果として、貧困や無知や病気からかなり解放されてきていますし、大部分の国民は中流意識をもって、その繁栄を謳歌するに至っています。しかし、その反面、心の病む時代、心の貧しい時代ともいわれております。猛烈に働く今のサラリーマンの二十パーセントはうつ病の予備軍だと指摘されるほどですし、家庭で、学校で、社会で、さまざまな病理現象が急速に吹き出してきています。

 物質の洪水とその束縛から離れ、病める心の健康をとり戻すために、現代の人びとの心をとらえている価値観を、この辺で転換する必要がありはしないでしょうか。このような価値観の反対にある価値観が、利休の大成した侘び茶道のなかに見出されます。金で買うことのできない、かけがえのないもの、茶の世界にはそうした素晴らしい豊かな精神性、価値観が培われているのです。「利休に帰れ」という提唱は茶の世界に限らず、現代の社会の人びとにとっても重要なことのように思われるのです。

 

加藤紫光(八王子禅会) #茶道部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 13:00 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
コロナ禍に思う#2 大切な何かに気づく機会

漸く8月になりました。

コロナ禍も収束に向かうと思っていましたが、再度感染拡大の様相です。

コロナ禍によって様々なことが変わってしまいました。

今まで普通と思っていたことが普通でなくなりました。

会社・学校に行けなく、皆で食事ができなく、旅行に行けなく・・・。

昭和〜平成そして令和と時が流れ、変わってしまったことや無くなったものも色々あります。

レコードが無くなり、電話ボックスが無くなり、街角でタバコは吸えず・・・。

時と共に様々なことが移り変わってきました。

変化は進化なのか退化なのか?

便利になる代わりに、無くしたものに気づく機会と思います。

 

「晴れてよし、曇りてもよし富士の山、元の姿はかわらざりけり」

 

 

中央支部 龍石拝

posted by ただいま禅の修行中 | 10:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
「合掌」が破れないで「機会」を打つ 〜小川忠太郎先生剣道話(59)〜

きょうは、みんながお互いに稽古をする際の事を、ひとつ注意しておく。

剣道はまず、「気剣体の一致」が出来なくてはいけない。
それは、切り返し・掛かり稽古をしっかりやれば得られる。これは三角矩の中段の構え。

この「本体」に相手が来れば、相手との間に「関係」が生じる。地稽古(注1)の場合、相手と自分が一つになる。

だから「合掌」だよ。合掌の気持ちで相手に対する。敵じゃない。「相手と一つ」だからな。

間合いが遠くの時はいい。近くに来ると「打とう」という気持ちが出て、この「合掌」が破れちゃう。そこが問題なんだ。

「打とう、突こう」という気持ちがあってもいいんだ。打つべき時、突くべき時ならね。
「機会」というものがある。「合掌」が破れないで、そういうものがあるならいい。つまり、本体が崩れないことが大事だ。

これは、修行して自得する。自分で持っているものだからね。

一足一刀の間合に入ったら、「乗る」こと。剣道は、乗るか乗られるかだ。


この一足一刀の間合から、自分が主導する立場に立たなければいけない。
相手が打とうとする時、一緒に何かしようとしない。これは、無刀流の形の「引き身の本覚」にある。相手が打とうとするところを「パッ」と。これをひとつ研究する。

これを「機先を制する」という。「パッ」と。これを「張り技」という。

(中略)

「張り技」。これは稽古で覚える。〇〇さんなんか、だいぶいいよ。これをひとつ覚えたら、稽古が楽になる。
きょうは、これだけ話しておく。「機先を制する」(注2)。

注1)
防具を付けて竹刀を持った者同士による真剣勝負の繰り返し稽古。
注2)
本文冒頭の「合掌」と最後の「機先を制する」は別のことではない。合掌の気持ちで相手に対し、相手と一つになる。一足一刀の間合に入ったら「乗って」パッと「機会」を打つ。これすなわち「機先を制する」ことであると、先生は言われている。「機先を制するは充実にあり」とも言われた。

昭和57年2月14日
宏道会剣道場述
(『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より)
*タイトル、構成、注……栗山令道 中央支部 #剣道部 #宏道会

posted by ただいま禅の修行中 | 08:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
思わぬところで禅に出会う−瞬時・瞬時を切に生きる

コロナで生活が単調になる。

若い人に感染が多いが、この閉塞感を破ろうとする動きでもあろう。

私には朝の抹茶を点てるのが、ひとつのメリハリだ。

座ること、山小屋に行くこと、歴史に浸ることと結構刺激つくりの種はある。
 


山歩きも、ひとつだ。

昔、素人ながら日本アルプスにも登った。

興味を持って角田の本を読んだ。

ガイドのマルコさんが鎚〇で、かつて修行していた。

ケルトの歴史では、銀碗に描かれた神が座禅している。

釈迦と同じアーリア人だから当然か?

アメリカのIT業界でも禅が見え隠れする。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 14:30 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
一枚の写真−瞬時・瞬時を切に生きる

家の片付けは、あと30%いや、まだ50%残っているだろう。

写真の整理で出てきた一枚だ。

 



27か28歳くらいの時。

一人で槍岳に登り、明けがた5時に出発し大天井岳、常念岳、最後に蝶岳に、やっとこさたどり着いた時の一枚だ。

常念岳の手前だろう。

天地の間に、ただ一人ちっぽけな自分がいる。

きゃしゃな己れを意識していたが、基礎体力があることも実感した。

結婚前だが、仕事・結婚に自信が持てた。

白黒の写真だ。カメラも時の流れで、携帯に取って代わられた。

私が属した繊維も昔日の感だ。

 

木戸開善(神戸禅会

 

 

posted by ただいま禅の修行中 | 14:20 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
ヨーロッパが理解できた−瞬時・瞬時を切に生きる

『ケルト人』を読んでいる。

ヨーロッパは、アジア、南北アメリカ、オセアニア、アフリカを征した。

数少ない征せざる国が、日本だ。

中東に文明が起こり、ヨーロッパは地中海から発展した。

ギリシャが栄え、マケドニア帝国が生まれ、ローマが後を継ぐ。

ローマ世界の北側、現在のヨーロッパの中心部分は蛮族の支配する暗黒地のイメージであった。

ケルト人は、なんとスキタイの末裔であった。

黒海、ドナウを遡りルーマニア、ハンガリー、ボヘミア、中部・南部ドイツ、もちろんフランス・ガリア、イギリス、アイルランドまで広がる。

ローマ・カエサルによる征服、後のゲルマン、ノルマンの支配等続くが、基礎のひとつがケルト人にあることは間違いない。

ヨーロッパが、理解できた気持ちがする。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 08:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
やまぼうしを鹿から守る−瞬時・瞬時を切に生きる

高校時代の憧れの女性、別府の女将のイメージは、やまぼうしである。

それで山小屋にも植えたが、一本は枯れ、今の一本も大きくならない。

鹿が新芽を小枝ごと食べるからだ。

2年越しに防護柵を作った。

何でもさっさとやらねばならない。

今回は雨ばかりで、作務は溝掃除と、この柵作りで終わった。

その代わり、本が、しっかり読めた。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 12:40 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (8)

(8)指月の著作

 

 大正13年、空穂は文芸雑誌『国民文学』を創刊した。アメリカ在住の指月にも贈ると、指月は入会するといって、何人分にかにあたる会費と、原稿としての詩を送って来た。

 

 

 【私は指月の詩なるものを、初めて目にした。詩だけでなく、短歌一首でも、いやしくも作品と称しているものは、かつて見たことがなかったのである。したがって危惧の念を抱いて、あまりまずいと困るがなあと思って読んだのであったが、読み終わると驚嘆した。案外にも佳いものだったのである。一口に言うと、純粋な、詩情のゆたかな、一抹の哀感の伴ったものであった。殊に私を魅した点は、ゆったりと落ちついてはいるが、割り切ってはず、起伏緩急をもった連のつらね方であった。伏と言い緩というべき、遊びに類した連は、自然な、わざとでない連句をもちいていて、うまいなあと感心させ、読み返えさせるのであった。表現形式は当時流行していた七五調で、四行一連であった。指月がいつこのような表現技法を身につけたのか、私には見当もつかなかった。彼は生来歌好きであったと見え、それと口には出さなかったが、好んで歌人に接近していた。むろん歌誌歌集は読んでおり、労苦して自得したものと思われる。しかし、詩の連と連との続きの上に、信念を持った、落ちついての起伏・緩急は、私には指月独自のものに思われた。これは、よる所があるとすれば、禅書から暗示を得たのではないかと想像した】と空穂は評している。

 

 大正3年から6年までの3年間、絶えることなく続いた詩を、指月は集にするように空穂に依頼した。空穂は言われるままに一集として『郷愁』と題し、指月のその頃の生活を書いて、序として刊行した。読んでくれそうな人にはもれなく寄贈したが、寄贈先からの反響も聞くを得なかった。後年指月が再々度の帰国の折、古本屋で案外高い値がついた『郷愁』をみつけたという。古本屋の高い値というのが唯一の反響だったのであると記されている。

 

 

 また、再々度の帰国の折、空穂は“ぼくの書くもの稿料になりませんかねえ?なりそうだったら、周旋していただきたいものだが”との指月の依頼をうけた。貯金が乏しくなって不安を感じたためのことであった。空穂は村松梢風に紹介した。梢風は幸いにも、指月という人間にも、その随筆的作品にも、かなり興味を感じて、めぼしい編集者に紹介周施し、後援の労を惜しまなかったという。梢風の興味は、指月の精神的視野がひろく、またその感じてとらえている材料が、完全に指月独自のもので、清新で、みずみずしく、うぶなところにあったらしい。指月の随筆は、読者に受けるのもと認められ、毎月2・3の営業雑誌に連載された。それらは『弗の女人像』『アメリカ夜話』と題する単行本にもまとめられ刊行されたという。私は古い『国民文学』や、これらの著書を探してみたが、いまや手がかりさえも得られないのであった。

 

  閑徹(横浜支部

posted by ただいま禅の修行中 | 21:07 | 横浜支部 | comments(0) | - |
≪曹渓庵佐々木指月老師のこと≫ (1)

「指月(曹渓庵佐々木指月老師)がアメリカへ行ってさして時を経ない頃のことである。

評論家石垣綾子氏の『夫婦』と題する書の中に、石垣氏の居られた同じアパートの一室に、佐々木指月という男が、その仲間の一人と同居していて、その室には仏壇をもうけ、アパートの各室を歴訪して仏教の宣伝をしていた。 誰も相手にしないのみか、迷惑がり、軽蔑さえした。二人は居たたまれなくなり、どこかへ行ってしまったという一節があることを、一友人が空穂(*1)に告げたという。」

 

曹渓庵佐々木指月老師 1939年頃 ニューヨークにて
曹渓庵佐々木指月老師 1939年頃 ニューヨークにて

 

実は、今からおよそ30年前の人間禅機関紙『人間禅』137、138、139号に、岳南支部の大先輩である故斎藤是心さん(慈雲庵斎藤是心老居士:大正11年〜平成28年帰寂)の投稿された文章の一コマです。

悲哀感というか、悲壮感が感じられ、今でも、小生の心の底に残っております。

 

今回、もう一度、拝読し、ブログへ何回かに分け(抜粋して)、掲載したいと存じます。 

 

*1)窪田空穂氏【歌人、国文学者、日本芸術院会員:1877年(明治10年)〜1967年(昭和42年)】は、是心さんの尊敬しておられた短歌の先生です。

 

天城山隧道北側
天城山隧道北側

 

(1) まえがき

 私の尊敬する歌人窪田空穂の著作の中に『佐々木指月という人』と題する一篇がある。確か昭和39年頃の短歌雑誌に2回にわたって掲載されたものであるが、当時私は、両忘庵門下の師家としての曹渓庵佐々木指月老師の名を聞き及んでいたので、その著作にめぐりあえたことに、不思議な機縁を感じ、深い感銘を覚えたものである。そこには曹渓庵老師が、わが歌の師と仰ぐ空穂先生の紹介によって、両忘庵釈宗活老師に入門されたことが記されており、その出生からアメリカ布教の中途に於いて逝去するまでの一部始終が細かく記されていたからである。

 曹渓庵老師はどちらかといえば不遇の中から身を起こし、彫刻により生活の資を得ながら禅の道に入られ、やがて両忘庵老師に従って伝道のためアメリカに渡り、生涯の大半ともいうべき三十年間を北米ニュヨークで過ごされ、師の悲願であるアメリカ伝道の礎をきづかれた方である。

 【佐々木指月という名は、私には甚だ親しく、忘れがたい名となっているが、しかし我が国内では三・四の人を除いては、殆ど誰も知らない名であろう・・・・指月が禅門に入る以前からの交友として、現在生存している者は、ただ一人、八十一歳の私が残っているだけである。人間としての指月の輪郭だけなりともと思って、この一文を草した次第である。】と空穂先生は述べているが、これだけの言葉からも曹渓庵老師に寄せる空穂先生のあつい思いが窺え、二人の交流の深さが偲ばれるのである。

 空穂先生が愛情をこめて綴ったその文章から窺える曹渓庵佐々木指月老師の人間像を、極力空穂先生の文章を引用させて頂き、紹介しておきたいと思う次第である。

 空穂先生の文章は曹渓庵老師のアメリカ伝道のことから書きおこされ、迫力ある構成となっているが、私はその中から取捨して経時的な老師の人間像を辿ってみようと思う。

〜続く〜

  閑徹(横浜支部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 20:29 | 横浜支部 | comments(0) | - |
「子連れ摂心の頃」〜 禅と私 〜

シリーズ「女性と禅」 第6回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

今でこそ小・中学校の教師の仕事は過労死レベル、と新聞でも報じられていますが、小学校の教員として勤めていた私は、勤務時間を過ぎても仕事が終わらず職場に残っているのはあたり前、それでも終わらず家に持ち帰ることもしばしば、クラスに問題が起これば家庭訪問をしたり解決するまで常に頭を悩ませる、などして多忙をきわめ、就職したとたんに摂心には参加できなくなりました。

5分きざみの過密スケジュールと、どこに行っても人が居る人口密度の高さは、大学生活から一変し、自分にはこの仕事は向かない、やめてしまいたい、と悩む程でした。

最近の様子を聞くと更に環境が改善されないまま世の中の批判の眼も厳しく責任も重くなっている様子、私の友人は「後輩には勧められない仕事になってしまった。」と嘆いていました。

予算を投入して人を増やし一クラスの人数を減らし、事務や仕事の分担を減らして、教員が授業に専念できる体制を早く作ってほしいものと願います。

教育予算の少なさは世界的に見ても日本はお恥ずかしい限りです。

 

禅の会は大学1年から入部、2年に摂心参加と有楽流茶道に入門、3年で房総支部で磨甎庵老師に入門、4年で見性を許され、社会人1年目に道号を頂きました。

そして結婚、出産、1男1女に恵まれ、家事育児にも奮闘しました。

 

結婚した人は禅に全く縁のない人でしたので、道場まで車で送迎してはくれましたが門の中に入る事はなく、結婚の条件として坐禅(座禅)の修行は続けたい、と伝えてありましたので、道場に出掛けて行く事は認めてくれましたが宿泊してくる時は子どもを連れて行く事、と言われました。

それで子連れの摂心参加を何年かしました。

子ども達が保育園児から小学校卒業位までの間です。

 

房総支部の慧純さん(後の緝熙庵慧純老禅子)をはじめとする多くの方々のご努力で、四街道に念願の道場ができていました。

ここは環境は抜群に良いのですが、交通が不便、私の自宅から2時間はかかります。

午前中ゆっくり出発し四街道駅にあったマクドナルドで親子3人昼食を食べタクシーで入山、帰りは午睡後、作務で買物に出る車に四街道駅まで乗せて貰って下山、又駅の商店街に寄り、子ども達にごほうびのお菓子等を買って帰宅していました。

自分としては破門されない様、老師や支部の皆さんにご挨拶に来ている様な感じでした。

夏のお盆の時の摂心会は子ども達に着がえを入れたリュックを背負わせ、モノレールからバスに乗り換え終点から道場をめざしてハイキング。

小学生になってからは宿題や本も入れさせました。

少しでも静かに時間を過ごさせる為の方策でしたが、そこはやはり子ども、一向におとなしくしていず、1泊が限界、ゼニゴケ取りの作務など親と一緒に居る時はまだいいのですが、禅子寮に子ども2人丈にして私が禅堂に行くと、ドタバタ暴れる音や兄妹喧嘩の声が禅堂まで響き、やむなく立って禅子寮へ戻る、という按配でした。

食事は典座寮の隅で親子3人食べさせて貰いました。

 

今から思うと、周囲の方々にはずい分ご無理をおかけしましたし、お世話して頂いた、と思います。

せっかくそういう家庭の喧騒から逃れて禅道場に来るのにうるさい、と言われるのではないかと、肩身も狭く、障子も破くので障子紙を持参したりしていました。

 

ただ当時は若い禅子が次々に結婚、出産、育児の時で、私の他にも子ども連れで参加する方もあったので、その時は幾らかほっとしていましたが、やはり坐禅(座禅)の静寂さを保つ為には子どもに無理を強いることになるので遠慮し、やがて下火になっていきました。

夫婦で禅の道に入っている方は交代で子どもをみる、とか、実家に預けるとかしたのかもしれません。

私の場合は他に選択肢の無い、致し方のない子連れ参加でした。

摂心会以外は坐禅(座禅)をすることもできない日々、公案が透る訳がありません。

それでも行く道帰る道は、日常を離れられるので心も浮き立ちました。

父を早く亡くし、結婚以来実母と同居し、実家というものがない私には、ふるさとへ帰る帰省の様な心楽しい子連れ参加でした。

そうやって到着する私を慧純さんはじめ房総支部の方々は懐を大きくして迎えてくださいました。

 

そんなある日、こんな事がありました。夏の事です。

私は子ども達を入浴させて早く寝かしつけ、心おきなくゆっくりと坐禅(座禅)したい、と思いました。

それで待者に相談しましたら、老師が入った後で入っていいから、という返事。

感謝の思いで入浴しましたら、その後帰ってきた支部長の智鏡さんが、自分より先に風呂に入った、とカンカンに怒り、大声で私たち親子をどなりつけました。

当時房総道場に風呂は一つしかなく、男子は外でシャワー、女子は開枕後ゆずり合って入っていたのでした。

人前で親子共々どなられた私はすっかり意気消沈し、その後しばらくは摂心に行く気がおこらず不参加、破門されてもいい、と開き直った、と言えば聞こえはいいのですが、悲しい気持ちで過ごしました。

結果論ですが、一晩位夏でも子どもを風呂に入れなくても良かったのかも知れません。

智鏡さんと慧純さんはご夫婦です。

そのお二人の間にその後どんな会話があったのでしょうか。

程なくして道場の敷地内に別棟を作る計画があることを聞きました。

要請があっていささかの喜捨を私もさせて頂きましたが、やがて立派な建物が建ちました。

そこには大きな立派なお風呂場が設置されていました。

 

残念ながら建物が完成する頃には子ども達も成長し、母親にはついてきてくれない歳になりました。

なので結局摂心で子どもと共にそこを使う事はなかったのですが、夏にある「子ども禅の会」では参加した子ども達と共に賑やかに楽しそうに入浴、又、摂心会では年配の方の為のお部屋として、又、お茶会では杉林の見えるお茶席として、今は多目的に使われています。

子連れの禅子が気遅れなく修行できるように、と心配した慧純さんの母心から造られた母子寮、それが今の緝熙寮です。

 

「摂心中1回は来なさいね。」と言う慧純さんの心に背いてはならじ、という思いはありましたし、一生続けると誓った事、破門になってはならじ、という思いもありましたが、当時の私にとって遠隔地の道場への子連れ摂心は、往復の道中はともかく、なかなかハードルの高いものでありました。

 

「道場へ来て殊勝気に坐って『私は坐禅(座禅)をしてます』なんて顔するじゃねえぞ、慈啓、家の事しっかりやればそれが立派な修行なんだ」と二世総裁の妙峰庵老師が直接私に言って下さった事があります。

又、「世間で男のやる仕事なんて大した事はないんだ(?)それより子どもを育て家の事をやる女の人の仕事の方がずっと大切だ。」ともおっしゃっていました。

その言葉に、「妙峰庵は女性にはそう言うけど、男性にはそうは言わない」と慧純さんが不満気に言ってはいましたが、私にはどこか心に響くものがありました。

育児の時は育児三昧とおっしゃりたかったのでしょう。

そういう言葉に慰められながら、とぼとぼと歩いてきた様に思います。

 

やがて持っていた公案が透りました。

1つの則を13年持っていました。

その則が透った時が私の再出発のスタートでありました。

 

このとぼとぼ道はまだまだ続き、とうとう「作務もしないで参禅丈に来る人」になってしまいました。

長くなるのでこれは次号に。

介護編です。

「あけぼの」創刊号「3人目の子ども」と、2号「友への手紙」に書いてありますので、良かったら読んでみてください。

今回の思い出は、30年経ったから書ける事であり、若き禅子の為に書きました。

参考になれば幸いです。

  慈啓(中央支部) (あけぼの第25号より抜粋) #女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 22:32 | 中央支部 | comments(0) | - |
久しぶりの山小屋−瞬時・瞬時を切に生きる

摂心の準備と後始末で7月は山小屋に行けず、久しぶりに訪れた。

豪雨のため道路沿いの溝に枯れ木がたまっていた。

掃除だ。

空模様同様、コロナが思わしくない。

せっかく静座会再開で2ヶ月過ぎようとするが、会場が使えなくなる可能性もある。

昨日は3人集まった。

こんな時こそ座りたい人もあろう。

手元の数字は悲観的なものだが、少し活動の自粛も見られるので一週間後に期待する。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 17:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
横浜支部に入会して

私は、総持寺(曹洞宗)や、鎌倉の曹洞宗とテーラワーダ(小乗仏教)両方で修行をされた方の座禅会に参加しておりました。
多くの方が苦しみを抱える現代、私のような家族の突然の死がきっかけとなり仏教に興味を持つ者以外にも、幼少時の両親との確執や離別、思春期の人間関係の失敗などにより、成長した後も対人関係がうまく結べなかったり、怒り・自己嫌悪などの問題を抱え、それを解決するメソッドを求めて来ている方が多いと感じています。
皆さんそれぞれ宗教遍歴がある方も多く、主に下記のような場所です。

1)テーラワーダ(小乗仏教)系
アルボムッレスマナサーラ長老、ゴエンカさん、プラユキ ナラテボーさん、草薙龍瞬さんなど
2)チベット仏教系
ダライ ラマ法王、ヨンゲ ミンギュルリンポチェなど

3)マインドフルネス系

  ティックナットハン師、島田啓介さん(ゆとり家)など
4)非二元系
ラマナ マハルシやニサルガダッタ マハラジなど

上記の瞑想会などを経験した方や、今まで和の文化に余り触れる機会が無かった方が人間禅に来た場合、感じる違和感や敷居の高さには次のようなものがあると思います。

1)年齢層
人間禅は長年定着している方が多く年齢層が高いため、若い方は、少し遠慮してしまう・とっつき難い・仲間が出来にくいなど感じると思います。
私は小規模な横浜支部で支部長を始め閑徹さんや正徹さんなど何人もの方に当初より親しく声をかけて頂き、大変心強かったのを覚えています。また分からないことを気軽に聞ける同性の翠玉さんの声かけも大変助かりました。

2)禅は役に立たない(禅は無功徳)。
よく聞くフレーズでそうなのだとは思いますが、苦しみ救われたいと思って来ている新到者がこれを言われると、万事休すかと思います。
修行を通じ自分が変化し(閑徹さんは自分を覆っていた鎧が一枚一枚剥がれて行くよと教えて下さいました)、苦しみを手放して行けることを説明すべきだと思います。 

3)作法や礼儀が厳しい。
和の文化に親しんでいないと、不合理で窮屈なものと思われがちだと思います。
(時間をかけて細かい席順を決めているのに、びっくりしたことがあります。)
嗣法であるが故に伝統を重じていることや、相手を思いやる心や物事を進める上で効率的なメソッドとして理由があり定着したものであることなどを、是非分かって頂きたいと思います。

4)封建的に見える
老師に侍者がつくことや、老師のお考えが決定に大きな影響力を持つことなどを封建的と捉える方もいると思います。
禅をして行く上で老師をを敬い信頼することは当然且つ必要であること。
また実は組織としてはかなりしっかりした民主的な組織であることは、他の宗教法人とは一線を画すほどのものがあると思うので、そこが分かれば却って安心して頂けると思います。

5)仏像が無い。
お寺には必ず有るものなので、仏教から離れた亜流では無いかと誤解される場合もあると思います。
特にテーラワーダを経験された方は、お釈迦様を拝む機会が無いことに違和感があるかと思います。

6)飲酒について。
テーラワーダやチベット系もお酒は基本飲まないので、修行の場でお酒を飲むことに大変びっくりしました。

 在家の活動であるし、慣れてしまえば親しくなれる機会なのですが。

以上色々述べましたが、これから人間禅に馴染んで行く身でありながら、大変僭越なことを述べましたことをお許し下さい。

ただ新到として感じやすい点を挙げさせて頂きました。

また、現在感じている人間禅の魅力としては
・立派な道場を備えていること。
・しっかりした構成の民主的な組織であること。
・歴史と実績に裏打ちされた伝統的なメソッドを伝えていること。
等々沢山あります。


そしてこれは正直な感想ですが、特筆すべきは人間力のある方が多いと言う点です。
他の座禅会のサンガでも親しい友人はたくさん出来ましたが、迷っていたり苦しみから抜け出せず同じところをグルグル回っている方が多い様に感じました。
人間禅のサンガでは苦しみはあっても真っ直ぐ前を見て進んでいる方が多く、先輩や老師の方々には確かに自分とは違う風格、人間力を感じることができました。

前述した、「自分の鎧が一枚一枚剥がれて行く。」ことは、苦しみにがんじがらめになっている方たちにとり、大きな希望になると思います。
是非多くの方達にそこを感じ取るまで、参加して頂きたいと思っております。

最後に、今まで座禅(瞑想)会で苦しんでいる方が沢山いらっしゃること、けれどもいくら瞑想をしても心療内科にかかっても苦しみから逃れることができず、いわゆる瞑想難民と言われるような方が沢山いらっしゃることを見て来ました。
本来日本の伝統仏教は力強い「救う力」を持っていると思うのですが、その役割を果たそうとしているお寺さんは非常に少ないようです。

そんな中、人間禅が果たす役割は大きく、是非新到さんがここでなら私の苦しみが軽くなるかも知れないと、2回・3回と足を運びそれを実感するようになって頂きたいと心から願っております。

 

人間禅に出会うことにより、私の目の前に開かれた禅の世界。

そこで私はどうなって行き、どんなご縁に恵まれて行くのか? 少し緊張すると共に、ワクワクしています。

老師と先輩方のご鞭撻に感謝しつつ、筆を擱きます。

  合掌 眈勝横浜支部

posted by ただいま禅の修行中 | 22:45 | 横浜支部 | comments(0) | - |
座禅合宿の効用

五葉塾塾生の富嶽です。

会社のブログに一週間坐禅会について書かせていただきました。

https://ameblo.jp/shiny-tokyo/entry-12612374399.html

 

障害をお持ちの方の就労をサポートすることを仕事としていて、ご利用者さんからブログの感想をいただきました。

 

「お坊さんだったんですね!」

「ち‥、違います」

「でも、ああいうの良いですね。私も参加したくなりました」

「いつでも来ていただいて大丈夫ですよ」

 

どこまで本音か、はたまた社交辞令かわかりませんが、日常から離れた「非日常の空間」に身を置くことで心身ともにリフレッシュできるという点でも座禅合宿は良いと思ってます。

 

道場は緑豊かで朝は鳥が囀り、

風がそよげば小枝が重なる音が心を癒します。

 

禅堂で座禅をしていると、慌ただしい日常からほんのひと時、時が緩やかに流れている空間がそこにはあるように感じることがあります。

 

坐ることで根源的な生きる喜びを感じたり、普段はあまり意識することのない呼吸や身体との対話が生まれます。

 

ブログに書いたとおり、私は「心を鍛える」為に座禅を始めたところがありますが、座禅を通して受ける恩恵は「癒し」であったり、考え方の「とらわれ」からの解放であったり、ふとした日常の喜びを感じられる感性を磨かせてもらったりと、多くのものをいただいている気がします。

 

また、共に坐る仲間がいるということで「寂しさ」と無縁の生活が送れているということは、現代社会においてとてもありがたいことのように思います。

 

何が楽しくて坐るのか。

 

一般の人にはなかなか分からないところがあるかもしれませんが、座禅合宿にはそんな効用かあるということを、ほんの少しでも感じていただければ幸いです。

 

写真の花は、先日の茶席の床の間に飾られた、

菊芋と細矢羽薄(ホソヤバネススキ)

 

富嶽拝 中央支部 #青年部

posted by ただいま禅の修行中 | 22:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
フランスには、学ぶべきところもありそうだ−瞬時・瞬時を切に生きる

コロナ騒ぎでは、イタリア、フランスの混乱を見て、遅れているなとか、日本は優れているとか思ったものだ。

そういう面もあろうが、都市封鎖に際し所得保証がされていた。

日本では、東京都が率先して保証し、やっと道が開けた。

フランスは出生率2だ。

ユニオン・リーブル、事実婚による。

子どものふたりに一人は婚姻によらない。

この本で演劇、映画、テレビに職を持つ人は特別失業保証で、生活の保証がされていると知った。

コロナで、日本では身分は河原乞食のままだ。

違いはそうとしても、人間の追求では、まだまだ先にある。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 19:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
老後の病気−瞬時・瞬時を切に生きる

病院の面談室で親族を待っている。

妻は幼い頃父親を亡くしたので、13歳上の兄が父親代わりであった。

恩人だ。

5月に夫婦で施設に入った。

久しぶりに訪ねたら、義兄は脳梗塞で入院中。

運動機能が損なわれ胃ろうの選択をした。

義姉は大量の脳溢血で手術受け、意思が通じない。

医療の技術で命はとりとめるが、この後の介護が大変である。

どちらも病院の世話になるしかない。

私は95で養護老人ホームに入りガンになりホスピスにと考えていた。

血管の病気になると筋書きが狂う。

義兄のように娘に頼るしかない。

入ってすぐに退所もありだから、90で入ろう。

あと10年と思うと、毎日に真剣さが増す。

 

木戸開善(神戸禅会

posted by ただいま禅の修行中 | 17:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
摘み採った大葉から、根!! 〜根も葉もある話〜


庭に勝手に生えてきた大葉を摘んで、持たせるために葉の軸を水に浸けておいた。
すると、1週間ほど経った頃だろうか?葉の軸先から何やら白く短い毛のようなものが!?

「これは根に違いない!!」。さらに1週間、根はどんどん伸びて写真のように。

今までも、買ってきた大葉を持たせるために、長年同じようにしてきたが、根を確認したことはなかった。

これからどうなるのか?  一部はこのまま水の中で、一部は土に植えて育ててみよう。
水あらば水を根城、土あらば土を根城と根差してくれるか?

そんなに大きいわけでもないのに、なぜ「大葉」?
その意味を知ったような気がした。

 

栗山令道(中央支部

posted by ただいま禅の修行中 | 08:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
人間禅道場7月の茶花

7月は木々の緑に包まれて、とても良い風景です。

令和2年7月上旬頃の茶花の紹介です。

 

【草花編】

1.藪茗荷(ヤブミョウガ)の花が咲いています。手の平を広げたような若緑の葉の先に白い丸い形の花です。藪茗荷は道場全体にあります。秋にはその花の後の実が青くなり、この時期の実もまた茶花として使うことができます。ただ背丈が高いので普段は喜ばれない花です。

 

2.藪菅草(ヤブカンゾウ)が咲き始めました。花は濃い黄褐色で、さらに濃い色斑紋が内部に見られます。濃い色のため、これはあまり茶花としては生けられませんが、蕾の時を使うことをおすすめ致します。最近までは道端に咲いてましたが見られなくなり貴重な花です。正門の垣根と茶花園に咲いています。日光黄菅(ニッコウキスゲ)の咲き方と全く同じですが花の色のため嫌われ物なので扱いが全く違います。

 

3.破れ傘(やぶれがさ)の花は目立たない小さい淡紅色で、その後の色は薄鼠色です。茎先に咲いています。葉の芽が出る時は注目されます。その形が破れ傘状だからです。花の咲いている時は“添え”として時々生けます。藤棚の下の茶花園に少し増えて来ました。

 

4.矢車薄荷(やぐるまはっか) 倉庫の近くの茶花園に初めて咲きました。薄荷の名の通り葉はなめるとハッカの味がします。矢車薄荷の名は、花の形が矢車に似ていることと芳香が有ることからきてます。似た名前で矢車草がありますが、これは葉の形が5月の鯉幟等を飾る高い支柱の上の矢車の形から来てます。このように身近な物から植物は名前が付けられています。

 

5.水引草(水引・毛蓼) 4種類が道場にはあります。よく気をつけて見ないとわからない程あちこちにあります。花の色が白・赤です。葉に斑入りで赤色・白色の花が咲きます。茎の先から長い穂状につき咲きます。細かい穂状の花がびっしりと咲き、お祝い等に使われる水引に似ているのでこの名が付いています。金水引という名のつく草があります。これは名前が似てますが、葉の形と咲き方が違い花の咲き方は虎の尾の花の咲き方です。雑草と思われ少ないです。

 

【樹木編】

 

1.木槿(ムクゲ)の花が咲き始めました。ある場所は保育園入口と園庭前の茶花園にあります。園の入口の花は薄ピンクで詳しい名は「花笠」です。また園庭前の花は白で中程に赤色ですので「日の丸、宗旦ムクゲ,ソコベ二(底紅)」といいます。一日花ですので蕾を用意しておくと良いです。夏の茶花では一番生けられます。

 

2.南天・万両・藪柑子の花が白く咲いてます。花の時期には殆ど生けられません。茶花としても生けられませんが、花の少ない時には皆さんの腕の見せ所です。この樹木は冬の正月の飾りとして赤い実の付いているのを色々に使われます。繁殖率がありますので道場のいたるところで見られます。藪柑子は地面にあります。下を見ると見られます。

 

3.紫陽花が咲いてます。大木になりつつあります。額紫陽花と雪洞紫陽花です。苔山・陰寮前の垣根・南寮玄関近くに咲いてます。

 

4.色々の若い実が付き始めています。上を向いて歩くと形の面白い実を見つけられますよ。

 

佐藤妙珠(中央支部) #茶道部                               

 

posted by ただいま禅の修行中 | 17:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
慈光(熊本支部)〜私と禅〜

シリーズ「女性と禅」 第5回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

今年古希を迎えました。

気分は40代ですが、娘や息子の髪に白いものを見つけると、ハッとして自分の年齢に気付きます。

 

人間禅にご縁をいただいて40年以上経ってしまいました。

「光陰矢の如し」必死に参禅していた日々が夢のようです。

 

人間禅に入門したお蔭で、俳句、茶道にもご縁を戴いて世界が広がりました。

高齢者になった今、楽しく過ごしています。

そして、禅の修行をしていたことで、子育ても楽しくできたと思います。

 

 

禅子が一人だったころ、子供たちは道友でした。

摂心会にも一緒に来て、典座寮の隅でご飯をいただいたこと、老師の入られた後のお風呂に入れていただいたこと、懇親会のこと…。

思い出がたくさんあります。

今でも子ども達と道場の話題に事欠きません。

 

 

長女は道号をいただきましたが、今、修行は中断中です。

隣町に住んでいるので、家を留守にするとき、植物の世話を頼んだり、パソコンのわからないときなど、教えて貰えるので助かっています。

 

孫は高校生と中学生になり以前ほど来なくなりましたが、たまに会うと嬉しいものです。

 

 

長男一家もクルマで30分ほどの熊本市内に住んでいましたが、去年から家族でアラブ首長国連邦に赴任しています。

海外に行くと聞いた時は、びっくりして、また孫たちと会えなくなる淋しさで、一晩中涙が出ましたが、現地で楽しく過ごしているようで今は安心しています。

毎週末スカイプやチャットでやり取りしています。

便利な世の中になったものです。

長男は以前ヨルダンに単身赴任していました。

ヨルダンで何か悩みがあったとき、数息観をしたら落ち着いたと話してくれました。

 

 

次男は江戸川区に住んでいて、夫婦で片野慈啓さんに有楽流茶道を習っています。

中央支部茶道部のみなさんにもお世話になっています。

 

今年のお正月、次男宅に第2子が生まれたので行った時、2歳の孫と抹茶を飲みました。

孫は初体験だったらしく、その後時々母親に点てて貰っているそうです。

ここも、毎週末、スカイプで会っています。

 

 

子ども連れの修行で、大変だったことは確かですが、大先輩の老禅子が「子どもはすぐに大きくなるから…」「一摂心に一回でもいいから参禅して修行を続けるように…」というお言葉をかけてくださったことを励みにして続けてきて本当に良かった、有難かったと思うこの頃です。

 

 

今、子育て中の禅子のみなさまに、私がかけていただいた大先輩のお言葉を贈ります。

「子どもはすぐに大きくなります。一摂心会に一日でもいいから参加して、一回でもいいから参禅して修行を続けてください。」

 

 

私は夫も修行をしていたので、続けられたこともありますが、自分のできる範囲で工夫して何とかやってきました。

子育ても大変な時がありましたが、禅の修行をしていたので、どんな時も子どもを信じることができたと思います。

振り返れば、子育ては親育て…私も子どもたちに育てられました。

母親の修行に付き合ってくれた子どもたちに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

これからは、身近な子どもや孫、ご縁のある友人や知人などに少しでもお役に立てたらいいなあと思っています。

  合掌 慈光(熊本支部) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 07:13 | 熊本支部 | comments(0) | - |
俳句を嗜む!

人間禅には、「坐忘会」という俳句の会がある。

私は、これまで俳句を嗜んだ経験はないが1年半ほど前から時々投句をしている。

俳句をはじめると、季節や旬の食べ物、草花、ちょっとした人の仕草に興味を持つようになる。

開催は、毎月1回で兼題(季語)が3つ用意されている。
開催日が近づくと、投句する7句を作るのに格闘する。
暇さえあれば、俳句を考えているが頭の中は堂々巡り…
推敲は、家内にもお願いし夫婦会議。家内は、なかなかセンスがよい。臨場感がない、意味が伝わらない、などとアドバイスをくれる。
開催日ギリギリに7句完成。さて、結果は?
これはイケると思っていた句が選ばれなかったり、いまひとつと思っていた句が選ばれたりで面白い。

 

さて、恥ずかしながら自薦の自作ベスト5は以下の通り。
(一面の…の句は、自宅のカレンダーを見ながら考えた。)
初詣 団子屋女将 腕まくり
一面の 菜の花ゆらす 小川かな
薪能 下天の夢と 唄えしか
サルトルに 栞はさみし 青すだれ
最果てと 詠まれし街の 寒き夜
 
光舟記 中央支部 #俳句
posted by ただいま禅の修行中 | 17:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
禅と出会って(香水 東京荻窪支部)

シリーズ「女性と禅」 第5回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

平成26年夏に、はじめて日暮里の擇木道場の女性部静座会(座禅会)に参加してから、早いもので4年目を迎えようとしている。

本来飽き性である自分がよく続いているものだと我ながら思う。

最初は、単に座りにこようと思っただけだったが、初日に丸川春潭老師にお会いし、お茶室で抹茶をいただきながら人間禅の歴史を聞いた。

土曜日午前中の女性部静座会(座禅会)に通ううちに、公案修行の話を熱く語る会員の方に接し、老師に願い出て初関をいただいたが、そのあまりにもわけのわからない内容がむしろ新鮮だったのか、俄然やる気になった。

何度目かの参禅を迎える早朝、朝から座っているときに、「これだ!」というものと出会った時の心の底からの安心は、今でもはっきり覚えている。

その直後に散歩して目に入ってきた木の葉がなんと鮮やかだったことか。

 

その後、公案修行の難しさに打ちのめされることもたびたびあるが、とりわけ自分の眼を開かせてくれた公案(例えば、「好雪片々」「至道無難」など)との出会いは、ただただ素晴らしいと思うと同時に、自分の眼の暗かったことに慄くばかりである。

もっと早く禅に出会いたかったというのが、正直な気持ちである。

 

とはいえ、20代で禅と出会ったとして、禅の修行を始めることができただろうか? と考えると、やはり無理だったのではないかと思う。

中学2年生の時に交通事故で亡くなった父親のいわば遺言として法曹の道を目指していた私にとって、とにかく早く司法試験に合格して母親を安心させてあげたいという気持ちが強く、実際に合格して検事になった後は、結婚、2人の娘の子育てと目まぐるしい毎日を送っており、到底禅の修行に時間を割くことはできなかったであろう。

子育てがひと段落し、やっとこれから自分のしたいことができる、その時は仕事がしたいと思っていたわけだが、結果的に、禅と出会うことになったのは、やはりお釈迦様の御導きというほかなく、これでよかったとも思う。

 

しかし、昔を思い出してみると、大学時代には無教会主義の信奉者である大学教授による聖書を読む会に参加したり、30代前半ころには近所の教会にも一時期通っていたことがあった。

若いころ、遠藤周作(「沈黙」は最高傑作であると思う)や高橋たか子の小説をよく読んでおり、その影響もあったのかもしれない。

将来に対する漠然とした不安感から逃れたという気持ちや自分の生きる道しるべのようなものを探していたのではないかと思う。

 

人生の後半に差し掛かる50歳直前で出会った「人間形成の禅」は、私にとっては、今後の生き方の道しるべであり、最終的にはいずれ迎えるであろう死との対面準備である。

 

三昧を身に付けることは容易なことではないが、毎日愚直に座り、ただ座り、道を求めていきたいと願うばかりである。

  合掌 香水(東京荻窪支部)

 

 「おのれこそ おのれのよるべ

  おのれを措きて 誰によるべぞ

  よくととのえし おのれにこそ

  まことえがたき よるべをぞ獲ん」

法句経160  友松圓諦著「法句経」

(講談社学術文庫より抜粋)

posted by ただいま禅の修行中 | 22:13 | 東京荻窪支部 | comments(0) | - |
禅と私(紫光 八王子禅会)

シリーズ「女性と禅」 第4回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

昨年は、家の事情(母の介護)で、所属支部の摂心・静座会しか出ていません。

葆光庵総裁老師にも参禅したいのですが、なかなか思うようにはいきません。

しかし、所属している八王子支部担当師家の鸞膠庵老師に参禅し、有難い気持ちで一杯です。

室内の事は他言できないので、何も言えませんが、鸞膠庵老師のご指導と公案の有難さを日々思っております。

感動です。

3年前に故・微笑庵老禅子からいただいた手紙に

「自分の力を1本に束ねよう、1本に束ねれば盤石です。

50歳を過ぎれば他人の評価など気にせず、これまでに得たほんとうのものを信じるのです。

幸い八王子支部は葆光庵総裁老師のもと(当時)、鸞膠庵老師を戴いてぴったりと思います。

鸞膠庵老師は『じつ』のあるお人です。

『実』があれば『わかる』それが人間です。

『じつ』以上のものはありません。

『じつ』はやり直しがきく。」

御病床だったのにこんな力強い言葉をいただき、今有難く思っています。

 

鸞膠庵老師が「八王子支部は、『座の八王子』と言われるくらい、座禅に骨を折れ」と言われており、私は今、1日に座禅は2〜3炷香しています。

静中の工夫と動中の工夫を人一倍しなければ力のない私は駄目なので、頑張っています。

心が強くなってきたな、と感じています。

詩人ウルマン原作「青春」の中に『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる』とあります。

寒い2月の八王子支部摂心会から帰ってきましたが、自信というものがようやく身に付いてきました。

心の豊かさ暖かさとはどういうものなのか、日々新たにして日々新た、です。

家に帰り、一番身近な家族を大事にする気持ちになれるのも、禅で心が養えてきたな、と感じているところです。

 

皆様にご心配いただいていた腰痛もまだ抱えていますが、それに加えて肩こりがひどくなり、週に2度程整形外科に行ってマッサージと牽引をやっています。

座禅中も痛くなり、助警に肩を叩いてもらうと少し良くなります。

昨年の「あけぼの」の珠滴庵老禅子の「膝さんありがとう」を読むと、私の痛みはまだまだだな、でも、「腰さん肩さんありがとう」とまで言えればしめたもの、とも思えました。

鸞膠庵老師に「摂心会 ご苦労様でした。ご家族の介護 ご自分の体調等 充分な修行環境のない中で 限られた時間で修行するのが本当の修行です。」とお声をかけていただき、色々と難題がありますが、本当の修行、工夫してこの禅の修行を全うできればどれだけ有難いか、と思っています。

鸞膠庵老師から次のような言葉もいただきました。

「修行を重ね 耕雲庵老大師 岡山でのご垂戒『最後の安住地に到達すべし』を目指すのではないでしょうか?」

日々の工夫に骨を折り、磨甎庵老師がよく言われていた「我も人なり 彼も人なり」彼とはお釈迦様、もう若くはない、怠けず精進したいと思います。

 

〖付記〗

青春

サムエル・ウルマン 岡田義夫訳


青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

(この詩を禅を始める前の私が読んだら、厳しい内容に心がしぼみ、私には青春は無いのか、老いていくだけか、と落ち込んだと思います。禅をやり、心の在り方を正していくと、この詩の厳しさを引き受ける力がようやくついてきたな、と感じることができ、禅に出会えて本当に良かったと思います。)

 

ツユクサ(イラスト)

  合掌 紫光(八王子禅会) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 22:48 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
エクセルファイルをホームページやブログに埋め込みたい

思い込みというものはとても怖いということを思い知りました。

 

表計算や文書はPDFにして管理や受け渡しすべし、という思い込みをしていたものだから、ホームページやブログにエクセルファイルを掲載したいという要望を何人から聞いても「そんなことできるの?」と謎なだけでした。

しかし、人間禅房総支部のある方からいただいた情報に目から鱗!

OneDrive上では埋め込みコードを作成することができるのです。

そのため、そのコードを貼り付ければ、ホームページでもブログでもエクセルファイルを閲覧したりダウンロードしたりできるということになります。

 

なぜエクセルファイルを掲載したいのかというと、摂心会の日程表や参加表などを開催支部と参加者でやりとりしたいからですが、PDFの掲載では、PDFに変換したりPDFからエクセルに変換したりとややこしいことこの上なし。

 

さて、エクセルを埋め込めるのなら埋め込んでみようではないか!ということで、早速やってみましょう。

 

1. OneDriveにサインインします。

2. OneDriveに埋め込みたいエクセルファイルを保存します。

3. ファイル → 共有 → 埋め込み → 埋め込みコードをコピーします。

4. ホームページまたはブログに埋め込みコードを貼り付けます。

※ 埋め込みコードを貼り付けるときは、ソースコードが編集できる画面で行います。

以上です。

以上ですよ!なんて簡単なんでしょう!!

ホントにもう「老居士、ありがとうございます」としか言えません。

 

ひとつ注意しなくてはならないのは、共有設定で「編集を許可する」のチェックを外さなければならないことです。

このチェックを外さないと誰でもそのファイルを編集できてしまいます。

 

 

とりあえず今回は埋め込むことができればもうそれでよしとします。東京

  合掌 翡翠(東京支部)

posted by ただいま禅の修行中 | 14:52 | 東京支部 | comments(0) | - |
明日もカイセイなり

人間禅中央支部の魁星です。


先月末から中央支部も徐々に活動が再開してきました。

静寂とした道場で皆で坐ると、独りで坐るのとは違って皆の真剣さが伝わってきて集中出来るような気がします。

そういう意味でも静かな道場に来て坐ることをお勧めします。
 

 


自分は道場を一歩出ると、携帯電話を常に手離せず騒がしい職場か、やんちゃ盛りの二人の子どもの相手をしている家にいるのが殆どで、静けさとは無縁の生活をしています。

本来は家でも時間を作って坐るべきなのですが、出来ていないため、今は道場で坐る時間を大切に過ごしています。

今月からは剣道の稽古も再開するので皆に会えるのは楽しみですが、4ヵ月近く稽古を休んだツケがコワイ……

 

魁星記(中央支部

posted by ただいま禅の修行中 | 10:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
『ケチじょうず』を読む−瞬時・瞬時を切に生きる

新しい5冊を借りた。

この前の『一兆ドルコーチ』は、書いてあることを、毎日反復したいと購入した。

禅に通じるように思っている。
 


『おひとりさまのケチじょうず』は、いずれ講演で老後の話をするが、金に関して使えそう。

なにせ毎日千円で暮らしている。

私も80に近いが、山小屋では、そんなものだ。

部屋の中に何もないのも参考になった。

空いたベッドを棚にしているのは一緒。

鍋の汁を捨てず一月違った具を料理するのもなるほどだ。

真似はしないが。4日くらいは、試したい。

ロマンは身近にあり、心の目を開けば手が届く。

禅に通じます。

 

木戸開善(神戸禅会

 

posted by ただいま禅の修行中 | 19:00 | 神戸禅会 | comments(0) | - |
目で見ないで、腹で見る 〜小川忠太郎先生剣道話(58)〜

みんな切り返しが良くなってきた。

切り返しの形が出来ても、「気剣体の一致」が出来なければいけない。それはどういう事かというと、呼吸が下がっていなければいけない。

初心の人は胸で呼吸する。それが腹へ下がる。しまいには踵(かかと)まで下がる。そこまで行けば満点だ。
切り返しでこれを練る。
これが本当に出来れば、剣道の大部分は終わり。あとは、形(カタ)で理合(りあい)をやって行けばいい。
切り返しで「気剣体の一致」を練る。

(中略)

警視庁で一番強いのは、持田先生だ。攻めが強くてどうにもならない。
……
どうしても迷わされるから、(ある先生が)「目をつぶってみたらいいだろう」と目をつぶってやってみたそうだ。
そうしたら、先生は打ってこない。
だから、剣道というものは、迷うという事がいけないんだな。

しかし、目ばかりつぶっているわけにはいかない。目なんかつぶる必要はない。
法定の努力呼吸をして、「ここ(先生下腹に手を当てられる)に収まればいい。

目で見ないで、臍下丹田で見たらいい。腹で「ズーッ」と見る。

その為には、(直心影流法定の形の)努力呼吸を数をかけてやればいい。そうなると開ける。それを知らないから、目をつぶったりする。

耳で聞かないで下腹で聞く。法定の努力呼吸は、えらいものですよ。ほかの形には、あんまりないね。

無刀流ではやっていますね。さすが山岡先生だ。「ハーッ、ンーッ」とね。これが本筋へ入る道なんだ。
誰でも出来る。中学生だって出来る。
その効果は、その人の熱心度の度合いですよ。

いいかげんにやっちゃ効果はないです。数息観と同じだ。居眠りしながら、いいかげんにやっても駄目だ。一生懸命やれば、自然に行く。

そのいい例が、白井亨。稽古を止めちゃって、苦し紛れに『夜船閑話』にぶつかって、それで2ヶ月真剣にやって、開けた。

この道場には、そういうものがあるんだから、小学生でも努力呼吸をやれば大したものだ。これは一生身に付く。

歳を取れば取るほど熟してきますからね。坐禅と同じだ。
最後のどうしても切れない雑念は、「一息裁断」。一息でいい。これで切れない雑念はない。努力呼吸はそこまで行かないといけない。

そういうものだからな。目なんかつぶらなくてもいいんだ。正確な方法でね、うんと一生懸命やる。

人間は三度三度食事をする要求がある。呼吸はいいかげんにしていても間に合う。しかし、呼吸は一番大事なんだ。これは精神的な食糧だよ。「ズーッ」と。これを毎日養ってやらないとね。

法定の形は、そういうものだ。私がこの歳(81歳)で稽古が出来るのは、法定の形のお陰だ。これに出会ったのは28の時だ。中学生の頃に出会っておれば、なお良かった。

歳を取れば取るほど熟してくる。そういうものだから、方向を間違えないように。
目なんかつぶったって駄目だ。


昭和57年1月31日
宏道会剣道場述
(『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より)
*タイトル、構成、( )内…栗山令道 中央支部 #剣道部 #宏道会

 

posted by ただいま禅の修行中 | 13:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
旱梅雨割れ目に農夫佇みて 蓮舟|四季折々(14)

旱梅雨割れ目に農夫佇みて  江口 蓮舟

 

梅雨の雨、夏の日照、気温など、農作業は自然に左右される難しい仕事だ。

一つでも不調であれば、収穫に影響する。

雨の降るべき梅雨の時期、日照りが続き、地割れが生じるほどで、米作りには最も大切な田植えが出来ない。

田の地割れをじっと見て立ちつくす農夫。

「佇む」で、これから先どうすべきかと心配、思案している姿を表した。

これは同時に作者の優しい視線でもある。

(「俳林」18号より)

 

飯田幽水(中央支部) #俳句

posted by ただいま禅の修行中 | 14:00 | 中央支部 | comments(0) | - |