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人間禅での修行を実社会でどう生かしているのか。変化の激しい日々の暮らしの中で、どのように平穏な心を保つ精進を心掛けているのか。未熟ながら修行中の者が考えてみました。我々が日々学んでいる文献等については、「人間禅」のホームページをご参照ください。https://ningenzen.org
継続するということ

シリーズ「女性と禅」 第7回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

入門してから19年、月日はあっという間に過ぎて現在に至ります。

はじめに、修行を継続するなかで私に生じた変化をざっくりと顧みたいと思います。


入門した頃の私は、修行とは摂心会に参加することだと思っていました。

とにかく自己の尊厳を自覚したい一心で道場に参じておりました。


私は子供のときから劣等感に苛まれ、鬱々と生きていました。

しかしながら、見性を許された途端に、それまでの長年の悩みが何だったかよく思い出せなくなりました。

「基本哀しかった毎日」が「基本楽しい毎日」に変わり、自分には無限の可能性があることを当然のこととして信じられるようになりました。

人間形成とはどのようなことか想像もできませんでしたが、自身に生じた変化と見性の喜びが、その後の修行の大きなエネルギー源となりました。


黒色絡子をいただく頃には、毎日の生活で苦しみがだいぶ少なくなり、心身は軽く感じられました。

自分を縛る重い鎖を外していく感覚がそれなりにありました。

人間形成とはこういうことなのかなと思ったり、修行は日常生活に役立つなどと烏滸がましくも考えたりしていました。

自分に生じる変化がとても楽しく、どこまで成長できるのだろうと意気揚々としておりました。

ただその一方で、当時の仕事の忙しさはありながらも、布教に携われていない自分は利他心が低いのでないかと、修行に対する自分の姿勢に漠然とした不安な気持ちもありました。


そして、茶色絡子をいただく頃になると、今度は一転して、わが身の至らなさが強烈に身に染みるようになりました。

絡子をいただいて間もない頃、「修行は日常生活で問われる」と法話で申し上げたこともありましたが、まだどこか2つを別物のように捉えていたと思います。


現在、私は自分の明白な力不足を日々痛感しております。

実地にできていない自分が情けなく、反省ばかりです。

以前と何が変わったかと申せば、これまでは自分の変化をただ喜んでいただけでしたが、何となくはるか遠くにうすボンヤリと目指すところが見えて、まったくなっていない自分に今更気づいたという感じです。

本当に恥ずかしいです。

ただ、単に責めても、変わらなければ用はなしませんので、自分を信じて、がんばるしかない、がんばろうと顔を上げて前を向いております。


さて、こうして自分の修行を顧みますと、見性直後と黒絡子をいただいた頃の私は、言わばイケイケドンドンの状態でした。

どちらも室内でひと山を越えて、自分が救われたことで、弱者から強者になったとでも思ったのか、どこか有頂天だった気がします。

慎ましくわきまえていたつもりでしたが、いま思えば未熟ゆえに自分も周囲も見えておらず、自覚がないまま傲慢になっていました。

これはとても恐ろしいことです。


最近になって時折思うことは、もしもこの時期に修行を遠ざかってしまっていたら、私はどれだけ無意識に人を傷つけて、人に迷惑をかけただろうということです。

本当に、心底ゾッとします。

いまも差のない有様ですが、それでも当時の自分の未熟さはわかります。

こうして気づけるようになったことだけを考えても、修行を途中で止めることなく継続してきてよかったと安堵するような気持ちになります。


このように恥ずかしい一例ではありますが、私のように覚束ない修行でも、こつこつと継続していれば知らず知らず新しい見地が拓かれ、それまでの自分が気づけなかったことに気づけるようになります。

修行は続けることが肝要なのです。


いまの私は、修行を継続できてきたことへの感謝と、最期まで継続したいという願いが、日々新たに少しずつ深まっていると感じます。


この道の修行は、正しく継続していれば、自然と利他心が生じざるを得ない、本当にありがたい道です。

どのような理由で修行を始めたとしても、人間の本来の姿に戻るように自然とそうなっていくのです。

修行の継続は、決して自分個人のためではありません。

だからこそ、「絶対に途中で止めてはならない!!」という心の底から叫ぶような思いがあります。

人生は厳しく、何が待ち構えているかわかりません。

私も足元をすくわれることがあるかもしれません。

ただ、何としてでも継続したい、継続していただきたいのです。

そして、正しく継続するためには、この道と老師がたを信じることが最も必要だと私は思います。


このように得難き仏縁に出逢えたことに、深く感謝しております。

そして、この道にご縁ができたのも、今日まで継続できたのも、ご指導くださった老師がたはもちろんのこと、道友の皆さまのおかげです。

皆さまにお逢いしたからこそ続けてこられたのであり、皆さまがいてくださることが本当にありがたいです。

このご恩を、少しでも次の方々にお返ししたいです。

継続とは、感謝の想いの表れでもあると思います。


これまで出逢った皆さま、そしてこれから出逢う皆さまとともに、末永く、把手共行したいと願っております。

  合掌 露香(中央支部)(あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 19:43 | 中央支部 | comments(0) | - |
「ぶれない自分になる」女性部摂心会 法話 

第一回女性部摂心会は大変素晴らしいものでした。

皆さんイキイキと活躍され充実感でいっぱいでした。

私も拙いながら法話を担当させていただきました。

記録として要約したものを掲載いたします。


前日のオリエンテーションで「どんな時にぶれたと感じますか?」と話し合っていただいた中で、「自分の考えを通すことができなかった時。自分の考えに自信が持てなかった時。・・・自分には自信をもって判断できる軸のようなものがない。」などが上げられました。

自信の反対は自分を信頼できない、不安であるということですから、どういう時にそうなるかといえば、自分が他より小さく感じた時に起こる心の動きだと思います。


自分より大きいと感じたものに対する漠然とした不安感が元にあるように思います。

それは人間関係だけでなく病気や災害なども含めたすべての自他の関係の中に起こることで、そこには嫌われたくないとか、失敗したくない、という気持も入っているのではないでしょうか。


人間には動植物全部にある「生存欲求」があります。

これは命を長らえ次につなぐという基本的な本能です。

しかし他に人間だけが持つ本能である「自我の生存欲求」があります。

そこには自他を区別し認識するという人間の能力が元にありますので、要は他から自我を守りたいという本能です。

わかりやすくいえば「私を大切に扱って。私を認めて。私は他より優位でなければならない(生き延びられない)。」というものです。

これが強いと承認欲求につながり、他人の目をとても気にするようになるのですが、出方は人それぞれです。

強く出れば他を低くして妬んだりしますし、かなわないと思えば自分を放棄する、つまり自殺にまで追い込む方向に行くこともあります。

自我の生存欲求があるにもかかわらず、自分を他(外界)より小さいと感じると抑圧が起こります。

自我を保全する本能があるのに抑えるという不自然で苦しい気持ち、漠然とした不安感、怒り、ぶれているというような感覚に襲われたりします。


「不安」という感覚には脳のセロトニンという神経物質が作用していると脳科学者たちは言っています。

自分が小さくて外が大きく感じ、とても乗り越えられなという不安が高じるとウツになってしまいます。

セロトニンは安心感の源で、よく分泌すれば安心感が出るので、楽観的でいられ、本番に強い、チャレンジできる気持ちになるのです。

残念ながら日本人は世界でも最もその分泌が少ない民族と言われています。

なので、チャレンジよりも「失敗しないようにしよう」と思うのだそうです。

要は国民全体が不安症だと言っても過言でないと言われています。


不安がぶれる要因であると言えるのですが、不安とは簡単に言うと、 過去に捉われ、未来の心配に心が持って行かれていることです。

実はとっくに終わったこと、まだ起こっていないことという妄想なのに、まるで実体があるかのように感じて「今」というたったひとつの現実に軸足を置けないでいる、まるで生きながら幽霊になっている、という状態です。


もうひとつカギを握っているのがドーパミンです。

これは快楽、幸福を感じる物質で、レセプターと結びついてスイッチが入るのだそうですが、入りやすい人は1%しかいないといわれています。

安心して楽しむことが不器用なのですね。

しかしこうした性質が電車の時刻の正確さは世界一、タンス預金が世界一、企業の発展は言うに及ばず、というような結果でもあるわけで、決して短所というわけではありません。

裏表です。


ただ、自分の意見をリスクを感じずに言うことが楽しい、とか、失敗しても明日があるさ、と言える日本人はほとんどいないということになるのですね。

周りも皆そういう性質であるらしいということは知っておいても良いのではないでしょうか。

人間が理解しやすくなります。


また、人間の最大幸福体質のひとつは、「社向性」と言われているのですが、自分が小さいと感じれば外界を恐れるので社会に向くことが辛くなります。

新しいことをやってねと言われても恐くてできない、その底にあるのは過去の失敗と未来への不安で、それに捉われて生きにくくなってしてしまうのです。

結局理想は、他と自分が同じ大きさになるようにいかに自分を育てていくか、ということになります。

 

<上手に育てられた場合とそうでない場合>
たとえば身長160僂凌佑170僂凌佑鮓ると、瞬間的にあの人は背が高いなと思いますし、150僂凌佑鮓ると低いなと思います。

ところが本来170僂高くて150僂低いという価値はどこにもないのです。

あくまで私から見て、という、私を中心にしたときに起こる認識にすぎません。


自分と違うものを見た時、人は2つに分類されます。

ひとつは、170僂覆鵑胴發垢ておかしい、150僂覆鵑鴇さすぎてカッコ悪い、と思う人、そして、うらやましくてたまらなくて自信をなくしたり妬む人とがいます。


このように他を自分より低く見る人の心の奥には、劣等感があるのです。

「自分はダメだ、自信がない」という人と、他人をけなして威張っている人は同じ根を持っています。

一見自信があるように見えても、実は劣等感から比較をしているのです。

受け入れたらもっと自分が惨めになるので、否定するわけです。

そして何かしらいつも傷ついています。


もうひとつは、小さくてかわいいな、スラっと背が高くて宝塚みたいでステキ!と思う人です。

あらいいわね、とは比較しない心ですから自分を傷つけません。

こういう人の心の中は、自分の身長を良しと受け入れています。

この時、自他の関係は同じ大きさになっています。


つまり、ありのままの自分を受け入れられる人、これも良い、あれも良い、と言える人です。

究極は山岡鉄舟の「晴れて良し、曇りても良し」の境地といえます。


「他(人・環境すべて)とうまくいかない時は、自分自身とうまくいっていない時」。

これが結論です。

要は自分自身とどうつき合っているか、が人生のすべてだということです。

ぶれる心は自分自身と仲よくできていない時だといえると思います。

 

<ありのままを受け入れるには>
自他が対等・円満な関係であるにはどうしたら良いでしょうか。


ぶれる時、心はザワザワとします。

たとえるなら湖の表面に波が立ったようなものです。

それは外から何かしらの風が吹いたときについで起こりますから、受け身になっているということです。

外界を湖に映る月だと例えると、せっかく外界と対峙しているのに、表面がザワついていると月は変形してそのままの姿が映りません。


ザワつくと怒りや悲しみという波が立ちます。

人は認識して自他の区別をつけることで自我を持つ動物なので、認識できる形に反応します。

つまり、波が立つと波という形に視点が行き、結果感情という波に捉われます。

捉われるとは執着することですから、これが暴風雨になってしまうとますます波に視点が向いて心そのものを見失いウツになったりするのです。


どうしたら正しい心の状態になれるかといえば、水の表面を静かに止めることです。

これを禅定といい、止観の止にあたります。


波を止めれば形あるものが消滅しますので認識ができなくなります。

ここで誤解があるのは、では怒りも悲しみもない状態をよしとするのか、ということなのですが、そうではないのです。

表面が定まったら視点が消滅しますから水そのものを感じる、つまり心そのものを感じられる状態になり、言葉にならない充実感、自分を把握している感覚が出て来ます。


心の表面に引っ張られているか、心そのものに住しているか、決定的な違いが出て来ます。


この時私たちは能動的、主体的な状態になることができます。

臨済禅師が「我は十二時を使う」と言われたところです。

心そのものに住していれば、波は心の活動の一部として受けとめられるので、波が起これば起こったことを生きている証として味わい、起こしたくなければ起こさないようにコントロールもできるのです。


そこには「止」の効果としての「観」が生まれるので、ありのままを見、ありのままを聞き、一切を裁かず、朗らかにいられる、というわけです。

 

<どうしたらよいか?呼吸法>
現代では通常「心身」と書きますが、道元禅師も「身心」と書いておられるように、西洋文明が入ってくるまで日本人は心を調えるのに身体が先でした。

今や最新の脳科学が身体が先といっています。

笑うから楽しいではなく、笑顔を作れば楽しくなるというのが常識になっています。


身が調えば心が調い、外界がありのままに映る、その時心は自分を受け入れ、実体を感じ、主体的になり、外界との関係が円満になるというわけです。

それはとりもなおさず日常生活に対して不安がなくなるということです。

このことを『般若心経』では「無有恐怖 遠離一切顛倒無想 究竟涅槃」と説いています。


さて、ありのままに受け入れる時、心は裁くことをしません。

他を計るものさしを持って外を裁くとき、ものさしは我のメモリです。

仏教の唯識論では、嫌な人は存在しない、と考えます。

正確には存在するのは「私が嫌だと思った人」なのです。

ですから、「私は軸を持っていない、自信がない」と言う人は、実は我を立てているということなのです。


そうだとすると、裁かない、ありのまま、偏らない、という心になるには、ものさしを捨てるしかないのです。

手ぶらが一番強い。

剣道でも「心をどこにも置かないこと」が極意だと言いますね。


これを実現するのが坐禅の呼吸法です。

自律神経を調えセロトニンを出し、ドーパミンをほどよく分泌してくれることからも証明されています。

 

<ハーバード大学のマインドフルネスの研究結果>
呼吸法の研究は世界的に行われていますが、マインドフルネスは禅の呼吸法を元に展開しているものですので、参考になりますので紹介します。


呼吸によって心の波が定まった人にはどんな効果があるか、という視点です。

NHKではウツなどで傷ついた脳が回復する、認知症になっても良くなる、呼吸法は最後の切り札であると報じていました。

 

1、ストレス解消
アメリカの疾病対策センターによると、病院で受診する人の3分の2がストレス関連であり、さらに医療費の75%がストレス関連であるとのことから、ストレスをいかに低減させるかは差し迫った問題として受け止められており、呼吸法に効果があることから取り入れようとする動きが大変広まっています。

企業でもストレスの問題は深刻ですので、グーグル、アップル、ヤフー、スターバックスなどの大企業がプログラムを導入しています。日本ではまだまだこれからです。


2、集中力
集中力とは、前後(過去未来)の不安を断ち、今に軸足を置いている状態のことです。

反対に集中できないのは不安を制御できていないからで、 チャレンジが苦手、ここ一番に弱い、ということにもなるのです。


鎌倉以降、武士が禅を取り入れたのも、戦場に行く時に、「前にやられた、今度もケガをするかも」などと思っていては、とても100%の力は出せないということから、いかに今に集中するかという命に関わるものとして真剣に修めたという経緯があります。


一方、それだけではなく、集中がよりよいコミュニケーションを生むという効果もあるのです。

私は小学生のお母さん向けの禅講座をやっていまして、そこで上げる例なのですが、サッカーの選手は一瞬の判断が勝敗に関わりますね。

いかに前後の不安を断ち切って今に集中するかが決め手になるのですが、その時サポーターが失敗したらどうしよう、いやきっと失敗するに違いない、というような不安感で注視していたとしたら、もっと選手は実力を出せないと思いませんか?

今に集中する心の態度は、他を助け育てる効果も大いにあると私は思います。

集中による高次の関係性は子育てにおいても非常に有効ですし、私は企業で坐禅指導を行っているのですが、そこでも上司と部下の関係などでまったく同じことが言えるとしていつもお話しています。


3、創造性
創造性とは、自分の物差しを持っていたら自分以上のものは出てこないのですから、捨てて初めて思いもよらないものが出てくるなどの飛躍がのぞまれます。

捨てるのは容易ではないと思います。

真剣に心を今に集中させて、そのことによってありのままを正受して、問いになりきったとき、ある機縁で殻を破って行くという可能性があるのだと思います。スティーブ・ジョブスの例もありますね。


しかし私はむしろ悩み事などにこそ創造性が必要だと思っています。現状マックスの悩みを破る答えなど、ちょっとやそっとで思いつくものではありません。

発想の転換、新しい視点を得るにはやはり呼吸法による捨てて得る感覚が役に立つと思います。


4、EQ の向上(心の知能指数)
EQは自分と他人の感情を認識・理解する能力のことで、それを元に自分の行動を制御し人間関係を円滑にする能力のことです。

つまりゆがんで自分を見ないこと、事実を受け入れることができるかどうか、ということです。

怒っているなら怒っているとメタ認知できないと感情に流され関係性は壊れてしまいます。

禅でも「察知」することの大事さは言われる通りです。

EQは大きな成果を上げられる人とそうでない人を分ける重要な要因であるとされていて、業績の優秀な人の99%がEQが高いという調査結果が出ているそうで、生活全般に及ぶ能力です。


5、より良い人間になる
さて、最後により良い人間になるというものがあります。

漠然としていますが、私は大いに注目したいと思っています。


この研究結果においては、マインドフルネスと向社会的行動の間には強い関連性があり、他人への共感の心や親切心を示す割合は呼吸法をしていない人たちより50%高かったとされています。


お釈迦様は出家の動機を後に「私は善き人になりたかった」と答えておられます。

また「善き友を持つことは清浄行の全体である」つまり修行の完成である、とも言われています。


大学の研究結果で言うと、共感力・親切心、つまり利他心が呼吸法によって高くなり、その結果主体的かつ穏やかな心を獲得し、人間の最高の心を導き出すということなのです。

呼吸法に確実に関係があるようだ、というところまでがわかっています。


しかし、実は釈尊以降、ずっと仏教では言ってきたことで、私たちの修行もとどのつまり「善き人」になることです。
では善き人とは何でしょうか。

 

<善き人とは>
私たちの存在をひとつひとつの水の泡だとしてみましょう。

世界には命が満ち満ちていますが見えません。

しかし泡は水から生まれます。

それが3つのうちの一番上の○の図です。

 

泡は水から生まれます

泡2

空を体感しつつ色を生きる「空即是色」


泡はそうなるにふさわしいいろいろな条件が整った時に水の中から現れますが、この動きを縁起と言います。

条件とは生きて動き続けているもので、たとえば人は親やそのまた親など、無限の縁の果てにあって、しかも縁を包括した存在です。


縁は過去から未来まで帝釈天の宮の網の目のようにことごとくが関係し合っています。

ひとつが動けば全体に影響は及びます。

そうやって私たちのひとりひとりが成り立っていると考えます。


水は過去も未来も含み、しかも常に動いている。

これを諸行無常と言います。固定していないものです。

泡は100年足らずで破れてしまいますが、水に吸収されていくのでなくなるわけではありません。

しかし泡と言う形はなくなります。


形あるものを仏教では色といいます。

ここでは泡の事ですが、なぜなら色あせてやがて消える存在だからです。

形あるものはいずれ無くなる。

消えてなくなるが無にはならない。

人間も死んだら炭酸ガスと何かになって質量は変わらないという説もあります。

これが仏教の死生観です。


人間の能力である認識力は、形あるものに適応されますので、通常泡しか見ていないのですが、仮に出処である水を空とするならば、形あるものとその出処の関係が「色即是空空即是色」ということになります。


泡だけの認識では孤独です。

決して他と交わらない存在です。

しかし、空を知ると、真ん中の図のように、一色になりますから、自他不二であらゆるものと一体になり生死もなければ孤独もありません。

隣の人とも、過去や未来のあらゆる存在ともつながっているということが理解できます。

これが見性体験です。


形あるものを認識する能力が「分別心」です。

分けるとは人間だけが持つ能力です。

何を分けるかといえば、今日は雨だとすると、嫌だな、とか好きだな、と思う、これが分けるということで、雨そのものには価値はついていないが、私たち人間がそれぞれの自我によって様々に〜と思った、〜と感じた、と認識します。


分別心は好きか嫌いか、正しいか間違っているか、背が高い低い、陰陽などこの世のすべてを二辺に分けて認識します。

『般若心経』では生滅、垢浄、増減として書かれます。

好・正・高・浄・増・生をなんとなく良さそうに感じるので+とし、嫌・誤・低・垢・滅をなんとなく良くなさそうなので−とすると、0のところにあるのが我であるとき、どちらかを選択することになります。

これが分別心です。

世の中のスキルアップ本では+を増やしましょう、と言いますが、仏教では、+も−も同格で、どちらかに偏ったときに苦が起こると説きます。

好きが行き過ぎれば「こんなに好きなのに」と三面記事行きですし、正が過ぎれば戦争になります。

しかし人間だけが持つ分別心ゆえに、様々な感情を持ち、味わうことができ、他の動物にはない発展を遂げてきたのです。

考える葦なのです。

しかしこれを持っていると色の世界だけでしか生きられないということになります。

ではどうしたら空の世界に入っていけるのでしょうか。

それには分別心を捨てなければなりません。

思い切って水に潜って水の方から泡を見ることが必要になってきます。


方法は+−境目の真ん中に0を置くのです。

インド人は0を発明した民族で、0を中道とお釈迦様はおっしゃったのです。

中は訓読みで「あたる」と読むように、的に当たる、そのものを射抜くように見る、つまり我で偏った見方ではなく、ありのままを見るということを意味し、その時私たちは分別心から離れて空になっていくのです。


「善き人」とは水に軸足を置きながら、泡を生きている人のことです。


つまり空を体感しつつ色を生きる「空即是色」です。

これが3番目の図です。

いったん空に徹して、そこから再度自分という縁によって起こった唯一無二の個を生ききっている姿、これが善き人です。

 

<良い人と善き人の違い>
ハーバート大学の研究でなぜか呼吸法をすると良い人になる、というのは、水の表面を止めれば相手がそのまま映るので、それが共感性を強化するからです。

あらゆる徳のある人、聖人はきっとこういう人をいうのだと思います。


しかし仏教ではさらにその先があるのです。

水の中に潜ったならば、一切の違いは消滅します。

この時、「無縁の慈悲」が起こると仏教では説くのです。

無縁とは、○○さんだから、という有縁を根拠に親切にするのではなく、自他不二の境地から起こる心です。

この境地に至った人を菩薩と呼ぶのです。

大乗仏教においては、智慧=空=慈悲=菩薩ですから、菩薩は拝む対象ではなく修行者が目指すものなのです。


その方法こそが坐禅であり、臨済宗においては公案です。

一切の分別心を捨てれば泡は消えて絶対の空になるのですが、その分別心を捨てさせるために公案があるわけです。

「父母未生以前における本来の面目」の父母とは対立する二つに分けられた概念のことです。

それが生まれる以前とは、悩内でふたつにわけて認識する概念が出る手前、そこに住せよ、と言っているのです。

つまり色の世界で分別した考えではいくら考えてもわからないようにできているので、早々にあきらめて視点を泡から水の方に向けよ、と導いているのです。

下に向きを変えたら空と自他が不二であるという感覚が体感としてわかる、これが見性です。

足元に広がっている過去に居て、かつ未来永劫住むところを指し示します。


「善き人」とは慈悲の菩薩の事。

人間とはなんと奇跡のような心の可能性を持っているのでしょう。

しかもそれは分別心という苦の元でもあるものがあればこそなのです。

 

不完全な自分を慈しんでそのままで良しとできるからこそ他を尊重できる、そこにぶれない心は宿るように思います。

『維摩経』では、煩悩を我が弟子のように扱え、と書かれています。

大事な弟子にモラハラなんてしないですよね。

未熟さを否定せず自らの成長を祈る、だからこそ努力が重ねられる、そのような人が他と伴うことができ、そういう人たちで作る世界が仏国土、世界楽土です。

見果てぬ夢は確信ある希望と喜びです。
合掌 さいたま禅会 笠倉玉溪 (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 17:30 | さいたま禅会 | comments(0) | - |
慧玉(房総支部)〜私と禅〜

シリーズ「女性と禅」 第7回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

「坐禅を始めてどの位ですか?」という質問には、いつも戸惑ってしまう。

長男が生まれた年に入門したと記憶しているので、もう40年以上も経過したことになるのだが、子育て、仕事を理由にたいした修行もせずに20年以上を過ごしていたように思う。

真剣に修行に向き合うようになったのは、磨甎庵老師が亡くなられる5年くらい前からか・・・。

その頃、たまたま老師の食事係を任されることになり、やっと道場が生活の中心に据えられるようになったように思う。

 

磨甎庵老師が帰寂され、金峰庵老師も遠くに行かれ、深い悲しみを感ずる日々もあった。

今は、ふたたび前を向いて歩む力を自分の内に感じている。

多くの道友に支えられ、勇気づけられ今があると思う。

 

今回『あけぼの25号』に向けて、「禅と私」をふり返ってみようと思ったが、なかなか言葉には表し切れない。

そこで、最近読んだ『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)の言葉を借りながら、今の心境について書いてみたいと思う。

 

『君たちはどう生きるか』は1937年(昭和12年)に発行されたにもかかわらず、戦後も売れ続け、今、ふたたび脚光を浴びている名著である。

書店の新刊コーナーに山積みされ、学校の同僚の机の上にも無造作に置かれている。

 

主人公のコペル君は中学二年生。

叔父さんに悩みを打ちあけ、人間として成長していく話の展開になっている。

一部抜粋する。

 

正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし・・・という人があったら、それは、たしかに申し分のない人だろう。こういう円満な人格者なら、人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打ちのある人だ。

しかし、―――君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるんだ。もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれば立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、――コペル君、いいか、―――それじゃ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。

世間の目よりも何よりも、君自信がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。

そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。 いいことをいいことだとし、 悪いことを悪いことだとし、

一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

 

若い頃の私を振り返ってみると、多様な価値観の狭間を揺れ動きながら、どこに信ずべきものがあるのか確信がもてず、自信を持って自分の生き方を決めかねている不安定さがいつもあったように思う。

 

禅と出会い、細々とではあるが禅の修行を続け、参禅弁道により自己と向き合い続けてきた結果、今、恥ずかしいことも誇れることも特にないが、隠すものとてなく、その時その時自分の思いを屈託なく素直に出し、自由に生きている自分がいることに気付く。

心が開かれ清々としている。

やっと自信を持って生きられるようになった。

そんな自分に気付くのである。

 

叔父さんがコペル君に「いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない」といったことの深い意味が納得できるのである。

 

『君たちはどう生きるか』では、さらにコペル君が親友の<いじめ>に遭遇し、上級生から<いじめ>を受けたら、みんなで立ち向かおうと約束しておきながら、いざというときに出ていく勇気を持てなかったときの苦しみを取り上げている。叔父さんはコペル君に言う。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」・・・・・・

 僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会う。

 もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ。・・・・・ 

 しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。人間である限り、過ちは誰にだってある。・・・・

お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲みだしてゆこうではないか、―――正しい道に歩いてゆく力があるから、今の苦しみもあるのだと。

 

自分は取り返しのつかないことをしてしまったと悔い、反省することはある。

気持ちがへこむこともある。

 

気持ちを切り替え勇気を出して一歩踏み出すと、自分を苦しめていたのは悔恨そのものではなく、ひと目を気にする自分こそが大きな問題であったことに気付く。

自分の気持を切り替え、思い切りのよい一歩を踏み出すことは、新しい自分の始まりになる。

失敗し、反省し、悔恨の情から新しい気付きがあり、生き直すことこそ人間らしい生き方なんだと思う。

 

私が大好きだった故緝煕庵老禅子は、「人間はよく間違えることがあるの」とおっしゃられ、《裏をみせ表を見せて散るもみじ》の句をよく口にされた。

 

「人間は、自分自身をあわれなものだとみとめることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」という言葉は、緝煕庵老禅子の飾らない真摯な人柄と共に、老禅子の人間としての気品を思い出させるものである。

 

総裁老師様から、「慧玉さんは修行をやめないで続けているのが偉い」と言われたことがある。

やっと、その意味が分かるようになってきた。

今、禅と出会った喜びを深く嚙みしめている。

 

『君たちはどう生きるか』は最後、次の文で締めくくられている。

 

そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。

君たちは、どう生きるか。

 

  合掌 慧玉(房総支部)(あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

 

引用文献:「君たちはどう生きるか」吉野源三郎著

posted by ただいま禅の修行中 | 22:52 | 房総支部 | comments(0) | - |
「子連れ摂心の頃」〜 禅と私 〜

シリーズ「女性と禅」 第6回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

今でこそ小・中学校の教師の仕事は過労死レベル、と新聞でも報じられていますが、小学校の教員として勤めていた私は、勤務時間を過ぎても仕事が終わらず職場に残っているのはあたり前、それでも終わらず家に持ち帰ることもしばしば、クラスに問題が起これば家庭訪問をしたり解決するまで常に頭を悩ませる、などして多忙をきわめ、就職したとたんに摂心には参加できなくなりました。

5分きざみの過密スケジュールと、どこに行っても人が居る人口密度の高さは、大学生活から一変し、自分にはこの仕事は向かない、やめてしまいたい、と悩む程でした。

最近の様子を聞くと更に環境が改善されないまま世の中の批判の眼も厳しく責任も重くなっている様子、私の友人は「後輩には勧められない仕事になってしまった。」と嘆いていました。

予算を投入して人を増やし一クラスの人数を減らし、事務や仕事の分担を減らして、教員が授業に専念できる体制を早く作ってほしいものと願います。

教育予算の少なさは世界的に見ても日本はお恥ずかしい限りです。

 

禅の会は大学1年から入部、2年に摂心参加と有楽流茶道に入門、3年で房総支部で磨甎庵老師に入門、4年で見性を許され、社会人1年目に道号を頂きました。

そして結婚、出産、1男1女に恵まれ、家事育児にも奮闘しました。

 

結婚した人は禅に全く縁のない人でしたので、道場まで車で送迎してはくれましたが門の中に入る事はなく、結婚の条件として坐禅(座禅)の修行は続けたい、と伝えてありましたので、道場に出掛けて行く事は認めてくれましたが宿泊してくる時は子どもを連れて行く事、と言われました。

それで子連れの摂心参加を何年かしました。

子ども達が保育園児から小学校卒業位までの間です。

 

房総支部の慧純さん(後の緝熙庵慧純老禅子)をはじめとする多くの方々のご努力で、四街道に念願の道場ができていました。

ここは環境は抜群に良いのですが、交通が不便、私の自宅から2時間はかかります。

午前中ゆっくり出発し四街道駅にあったマクドナルドで親子3人昼食を食べタクシーで入山、帰りは午睡後、作務で買物に出る車に四街道駅まで乗せて貰って下山、又駅の商店街に寄り、子ども達にごほうびのお菓子等を買って帰宅していました。

自分としては破門されない様、老師や支部の皆さんにご挨拶に来ている様な感じでした。

夏のお盆の時の摂心会は子ども達に着がえを入れたリュックを背負わせ、モノレールからバスに乗り換え終点から道場をめざしてハイキング。

小学生になってからは宿題や本も入れさせました。

少しでも静かに時間を過ごさせる為の方策でしたが、そこはやはり子ども、一向におとなしくしていず、1泊が限界、ゼニゴケ取りの作務など親と一緒に居る時はまだいいのですが、禅子寮に子ども2人丈にして私が禅堂に行くと、ドタバタ暴れる音や兄妹喧嘩の声が禅堂まで響き、やむなく立って禅子寮へ戻る、という按配でした。

食事は典座寮の隅で親子3人食べさせて貰いました。

 

今から思うと、周囲の方々にはずい分ご無理をおかけしましたし、お世話して頂いた、と思います。

せっかくそういう家庭の喧騒から逃れて禅道場に来るのにうるさい、と言われるのではないかと、肩身も狭く、障子も破くので障子紙を持参したりしていました。

 

ただ当時は若い禅子が次々に結婚、出産、育児の時で、私の他にも子ども連れで参加する方もあったので、その時は幾らかほっとしていましたが、やはり坐禅(座禅)の静寂さを保つ為には子どもに無理を強いることになるので遠慮し、やがて下火になっていきました。

夫婦で禅の道に入っている方は交代で子どもをみる、とか、実家に預けるとかしたのかもしれません。

私の場合は他に選択肢の無い、致し方のない子連れ参加でした。

摂心会以外は坐禅(座禅)をすることもできない日々、公案が透る訳がありません。

それでも行く道帰る道は、日常を離れられるので心も浮き立ちました。

父を早く亡くし、結婚以来実母と同居し、実家というものがない私には、ふるさとへ帰る帰省の様な心楽しい子連れ参加でした。

そうやって到着する私を慧純さんはじめ房総支部の方々は懐を大きくして迎えてくださいました。

 

そんなある日、こんな事がありました。夏の事です。

私は子ども達を入浴させて早く寝かしつけ、心おきなくゆっくりと坐禅(座禅)したい、と思いました。

それで待者に相談しましたら、老師が入った後で入っていいから、という返事。

感謝の思いで入浴しましたら、その後帰ってきた支部長の智鏡さんが、自分より先に風呂に入った、とカンカンに怒り、大声で私たち親子をどなりつけました。

当時房総道場に風呂は一つしかなく、男子は外でシャワー、女子は開枕後ゆずり合って入っていたのでした。

人前で親子共々どなられた私はすっかり意気消沈し、その後しばらくは摂心に行く気がおこらず不参加、破門されてもいい、と開き直った、と言えば聞こえはいいのですが、悲しい気持ちで過ごしました。

結果論ですが、一晩位夏でも子どもを風呂に入れなくても良かったのかも知れません。

智鏡さんと慧純さんはご夫婦です。

そのお二人の間にその後どんな会話があったのでしょうか。

程なくして道場の敷地内に別棟を作る計画があることを聞きました。

要請があっていささかの喜捨を私もさせて頂きましたが、やがて立派な建物が建ちました。

そこには大きな立派なお風呂場が設置されていました。

 

残念ながら建物が完成する頃には子ども達も成長し、母親にはついてきてくれない歳になりました。

なので結局摂心で子どもと共にそこを使う事はなかったのですが、夏にある「子ども禅の会」では参加した子ども達と共に賑やかに楽しそうに入浴、又、摂心会では年配の方の為のお部屋として、又、お茶会では杉林の見えるお茶席として、今は多目的に使われています。

子連れの禅子が気遅れなく修行できるように、と心配した慧純さんの母心から造られた母子寮、それが今の緝熙寮です。

 

「摂心中1回は来なさいね。」と言う慧純さんの心に背いてはならじ、という思いはありましたし、一生続けると誓った事、破門になってはならじ、という思いもありましたが、当時の私にとって遠隔地の道場への子連れ摂心は、往復の道中はともかく、なかなかハードルの高いものでありました。

 

「道場へ来て殊勝気に坐って『私は坐禅(座禅)をしてます』なんて顔するじゃねえぞ、慈啓、家の事しっかりやればそれが立派な修行なんだ」と二世総裁の妙峰庵老師が直接私に言って下さった事があります。

又、「世間で男のやる仕事なんて大した事はないんだ(?)それより子どもを育て家の事をやる女の人の仕事の方がずっと大切だ。」ともおっしゃっていました。

その言葉に、「妙峰庵は女性にはそう言うけど、男性にはそうは言わない」と慧純さんが不満気に言ってはいましたが、私にはどこか心に響くものがありました。

育児の時は育児三昧とおっしゃりたかったのでしょう。

そういう言葉に慰められながら、とぼとぼと歩いてきた様に思います。

 

やがて持っていた公案が透りました。

1つの則を13年持っていました。

その則が透った時が私の再出発のスタートでありました。

 

このとぼとぼ道はまだまだ続き、とうとう「作務もしないで参禅丈に来る人」になってしまいました。

長くなるのでこれは次号に。

介護編です。

「あけぼの」創刊号「3人目の子ども」と、2号「友への手紙」に書いてありますので、良かったら読んでみてください。

今回の思い出は、30年経ったから書ける事であり、若き禅子の為に書きました。

参考になれば幸いです。

  慈啓(中央支部) (あけぼの第25号より抜粋) #女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 22:32 | 中央支部 | comments(0) | - |
慈光(熊本支部)〜私と禅〜

シリーズ「女性と禅」 第5回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

今年古希を迎えました。

気分は40代ですが、娘や息子の髪に白いものを見つけると、ハッとして自分の年齢に気付きます。

 

人間禅にご縁をいただいて40年以上経ってしまいました。

「光陰矢の如し」必死に参禅していた日々が夢のようです。

 

人間禅に入門したお蔭で、俳句、茶道にもご縁を戴いて世界が広がりました。

高齢者になった今、楽しく過ごしています。

そして、禅の修行をしていたことで、子育ても楽しくできたと思います。

 

 

禅子が一人だったころ、子供たちは道友でした。

摂心会にも一緒に来て、典座寮の隅でご飯をいただいたこと、老師の入られた後のお風呂に入れていただいたこと、懇親会のこと…。

思い出がたくさんあります。

今でも子ども達と道場の話題に事欠きません。

 

 

長女は道号をいただきましたが、今、修行は中断中です。

隣町に住んでいるので、家を留守にするとき、植物の世話を頼んだり、パソコンのわからないときなど、教えて貰えるので助かっています。

 

孫は高校生と中学生になり以前ほど来なくなりましたが、たまに会うと嬉しいものです。

 

 

長男一家もクルマで30分ほどの熊本市内に住んでいましたが、去年から家族でアラブ首長国連邦に赴任しています。

海外に行くと聞いた時は、びっくりして、また孫たちと会えなくなる淋しさで、一晩中涙が出ましたが、現地で楽しく過ごしているようで今は安心しています。

毎週末スカイプやチャットでやり取りしています。

便利な世の中になったものです。

長男は以前ヨルダンに単身赴任していました。

ヨルダンで何か悩みがあったとき、数息観をしたら落ち着いたと話してくれました。

 

 

次男は江戸川区に住んでいて、夫婦で片野慈啓さんに有楽流茶道を習っています。

中央支部茶道部のみなさんにもお世話になっています。

 

今年のお正月、次男宅に第2子が生まれたので行った時、2歳の孫と抹茶を飲みました。

孫は初体験だったらしく、その後時々母親に点てて貰っているそうです。

ここも、毎週末、スカイプで会っています。

 

 

子ども連れの修行で、大変だったことは確かですが、大先輩の老禅子が「子どもはすぐに大きくなるから…」「一摂心に一回でもいいから参禅して修行を続けるように…」というお言葉をかけてくださったことを励みにして続けてきて本当に良かった、有難かったと思うこの頃です。

 

 

今、子育て中の禅子のみなさまに、私がかけていただいた大先輩のお言葉を贈ります。

「子どもはすぐに大きくなります。一摂心会に一日でもいいから参加して、一回でもいいから参禅して修行を続けてください。」

 

 

私は夫も修行をしていたので、続けられたこともありますが、自分のできる範囲で工夫して何とかやってきました。

子育ても大変な時がありましたが、禅の修行をしていたので、どんな時も子どもを信じることができたと思います。

振り返れば、子育ては親育て…私も子どもたちに育てられました。

母親の修行に付き合ってくれた子どもたちに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

これからは、身近な子どもや孫、ご縁のある友人や知人などに少しでもお役に立てたらいいなあと思っています。

  合掌 慈光(熊本支部) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 07:13 | 熊本支部 | comments(0) | - |
禅と私(紫光 八王子禅会)

シリーズ「女性と禅」 第4回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。

禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

昨年は、家の事情(母の介護)で、所属支部の摂心・静座会しか出ていません。

葆光庵総裁老師にも参禅したいのですが、なかなか思うようにはいきません。

しかし、所属している八王子支部担当師家の鸞膠庵老師に参禅し、有難い気持ちで一杯です。

室内の事は他言できないので、何も言えませんが、鸞膠庵老師のご指導と公案の有難さを日々思っております。

感動です。

3年前に故・微笑庵老禅子からいただいた手紙に

「自分の力を1本に束ねよう、1本に束ねれば盤石です。

50歳を過ぎれば他人の評価など気にせず、これまでに得たほんとうのものを信じるのです。

幸い八王子支部は葆光庵総裁老師のもと(当時)、鸞膠庵老師を戴いてぴったりと思います。

鸞膠庵老師は『じつ』のあるお人です。

『実』があれば『わかる』それが人間です。

『じつ』以上のものはありません。

『じつ』はやり直しがきく。」

御病床だったのにこんな力強い言葉をいただき、今有難く思っています。

 

鸞膠庵老師が「八王子支部は、『座の八王子』と言われるくらい、座禅に骨を折れ」と言われており、私は今、1日に座禅は2〜3炷香しています。

静中の工夫と動中の工夫を人一倍しなければ力のない私は駄目なので、頑張っています。

心が強くなってきたな、と感じています。

詩人ウルマン原作「青春」の中に『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる』とあります。

寒い2月の八王子支部摂心会から帰ってきましたが、自信というものがようやく身に付いてきました。

心の豊かさ暖かさとはどういうものなのか、日々新たにして日々新た、です。

家に帰り、一番身近な家族を大事にする気持ちになれるのも、禅で心が養えてきたな、と感じているところです。

 

皆様にご心配いただいていた腰痛もまだ抱えていますが、それに加えて肩こりがひどくなり、週に2度程整形外科に行ってマッサージと牽引をやっています。

座禅中も痛くなり、助警に肩を叩いてもらうと少し良くなります。

昨年の「あけぼの」の珠滴庵老禅子の「膝さんありがとう」を読むと、私の痛みはまだまだだな、でも、「腰さん肩さんありがとう」とまで言えればしめたもの、とも思えました。

鸞膠庵老師に「摂心会 ご苦労様でした。ご家族の介護 ご自分の体調等 充分な修行環境のない中で 限られた時間で修行するのが本当の修行です。」とお声をかけていただき、色々と難題がありますが、本当の修行、工夫してこの禅の修行を全うできればどれだけ有難いか、と思っています。

鸞膠庵老師から次のような言葉もいただきました。

「修行を重ね 耕雲庵老大師 岡山でのご垂戒『最後の安住地に到達すべし』を目指すのではないでしょうか?」

日々の工夫に骨を折り、磨甎庵老師がよく言われていた「我も人なり 彼も人なり」彼とはお釈迦様、もう若くはない、怠けず精進したいと思います。

 

〖付記〗

青春

サムエル・ウルマン 岡田義夫訳


青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

(この詩を禅を始める前の私が読んだら、厳しい内容に心がしぼみ、私には青春は無いのか、老いていくだけか、と落ち込んだと思います。禅をやり、心の在り方を正していくと、この詩の厳しさを引き受ける力がようやくついてきたな、と感じることができ、禅に出会えて本当に良かったと思います。)

 

ツユクサ(イラスト)

  合掌 紫光(八王子禅会) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

posted by ただいま禅の修行中 | 22:48 | 八王子禅会 | comments(0) | - |
声を出すということ

シリーズ「女性と禅」 第3回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。
禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

「禅は無功徳」といいますし、座禅に何かを求めているつもりもありません。

しかし、擇木道場に通い始めて2年目に入った現在、思い返してみると私のなかに思わぬ変化があったことも事実です。

 

私は「声を出す」「話をする」ということに非常に不安と恐怖を抱いてしまいます。

女性部の静座会(座禅会)では静座(座禅)後に自己紹介や近況報告をする場面があります。

さらに参禅では公案を述べるのにも声を出さなければなりませんし、摂心会では会歌斉唱があったり、食事で食前の文や食畢の偈を唱えるのにも声を出します。

懇親会での歌なんて恐怖でしかありません。

 

今でも声を出すということに対して苦手意識はありますが、それでもその苦手意識が少し薄れたような感じがあります。

そして「話をしても大丈夫なのかもしれない」という安心感のようなものが芽生え始めたのではないかとも感じています。

 

安心感というよりもある意味「諦め」と言ったほうがよいかもしれません。

禅をとるか、それとも苦手なことから逃げるかを選択するときに禅を続けることを選んだということです。

以前の私だったら迷うことなく「声を出す・話をする」という苦手なことから全力で逃げていたはずです。

でも、逃げずに座禅を続けるなら声を出すしかないし、話をするしかありません。

そういう状況に自らを追い込むことができたとも言えそうです。

 

なぜ苦手なことより座禅を選んだのかは自分でもよくわかりません。

そのメカニズムがわかれば他の苦手克服にも役立つのではないかと思うのですが。

 

今でも大きな声を出すことは上手くできません。

ただ、声を出すコツのようなものがなんとなくですがわかってきたように思います。

これは法定のおかげもあると私は考えています。

法定は東京支部の摂心会で作務としてしているだけですが、腹の底から声を出すということを初めて経験したことで、のどの使い方を体がわかってくれたのかもしれないと感じています。

法定は数息観ではありませんが、やはり禅なのだなと思えます。

動きや呼吸のひとつひとつを意識して、その動きや呼吸だけに全力を尽くす。

動きはまったく違うけれどお茶のお点前と似ているとも感じます。

ということはつまり、いつもは忘れてしまいがちだけれど、日常のすべてが禅なのでしょう。

 

日常のひとつひとつに全力を尽くすことはできていないけれど、苦手なことも多いけれど、それでも毎日少しでも数息観をして、できるだけ一炷香坐る。

そんな日々をこれからも過ごしていきたいと思っています。

(掲載に際し、一部修正を加えました)

  合掌 翡翠(東京支部) (あけぼの第25号より抜粋) #女性部

posted by ただいま禅の修行中 | 20:39 | 東京支部 | comments(0) | - |
禅と私(夢遊 名古屋支部)

シリーズ「女性と禅」 第2回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。
禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

私にとっての禅との出会いは、2015年の春。

ちょうど40歳になった頃でした。

 

大阪で生まれ、大学を卒業して、幼児教育にかかわる会社に就職。

最初は厳しかった仕事も続けていくうちにやりたかったこともできるようになりました。

30歳で結婚して、二人の子どもにも恵まれ、その場その場では大変なことやつらかったこともありましたが、振り返ってみて一言でいうと、“やりたいようになってきた”、そんな人生を送っていました。

そんな中、子育てとの両立のため転職。

その会社で任せていただいた役割がどんどん大きくなっていきました。

そのころは頼まれると断れなかった私は、まだ保育園の子どもがいるにもかかわらず、終電まで仕事をしたり、休日出勤までしたり、、、そんな日々に飲み込まれてもいました。

30代後半になった頃、ふと、自分のこれからの人生を考えて、40代以降の自分が全くイメージできないことに気づきました。

振り返ると、そのころ、私の周りには同じ世代で頑張っている女性はたくさんいましたが、人生の先輩である女性たちは、なんだか大変そうに見えることが多かったのです。

「40代になっても私はこのペースで働くのだろうか。そのうちに子どもたちが大きくなって手が離れてしまう・・・私ってホントにそれでいいのかな」と考えるようになりました。

そんな時に、偶然、ドリームマップというツールに出会い、自分自身の本当にやりたいこと、望んでいる未来は何なのか、考えるきっかけをもらい、これをもっと多くの人に知ってもらいたい、と再度転職し、その普及に携わることになりました。

 

ドリームマップでも、最初は、家族と仕事を無理なく両立させようとしていたのですが、どうも性分なのでしょうか、そのうちまた仕事の比重が大きくなってきました。

というのは、インターネットやSNSの発達で勤務時間や働く場所は自由に選択できたのですが、逆に、いつでもどこでもつながってしまうことで区切り目がなくなり、それまで以上に時間があっという間にすぎていってとどめようもない、という感覚を味わうようになっていったからです。

私が子どもの頃から大好きな本でドイツの作家ミヒャエルエンデの「モモ」があります。時間泥棒が人々に「時間を貯蓄すれば命が増える」と勧め、便利や効率に目を奪われた人々は、せかせかと生活をするようになり、人生を楽しむことを忘れてしまう、ということを通して人生で本当に大切なものは何かを考えさせられるお話です。

ふと、「モモ」に登場する町の人たちのようになっている自分に気づき、どこかで立ち止まり、自分自身にとって大切なことを見失わないようにする場があったらいいのに、と思うようになっていました。

そんな時、最初の会社で数年共に仕事をしていて仲の良かった、現在は岐阜禅会長の渡辺玉蘭さんが、Facebookで「座禅女子会」のお知らせを投稿していたのが私と禅との出会いでした。

それまで、仏教にも興味がなく、禅=座禅、バシッとたたかれる、というイメージしかなかった私。

ですがこの時「座禅なら、この飛ぶように過ぎていく時間もリセットできるかも」となんとなく思い、「久しぶりに会いに行ってみよう」というぐらいの気持ちで座禅女子会に参加したのが人間禅との出会いになりました。

 

今となっては最初は想像もしなかったほど、私にとって、本当に大事な時間であり、場となっています。

その理由は、まず、母でも、妻でも、娘でも、姉でも、仕事上の私でもない、ただ私自身としていられる場であること。

また、仕事や家庭生活の中でも自分の力だけでは何ともならないこと、予想もしないことが起きたりすることは多々あります。

しかし、そんな時でも、自分自身を整える日々の座禅があること、更に、参禅という場があることで、その時々に「外的要因はいろいろあるけれど、その解決は自分自身の中にある」と感じたり、そんな風に言葉にはならないことなのですが「あ〜、そういうことだったのか」とおなかの底の方から様々気づかせて頂ける機会であることが、本当に有難く貴重な場であると思っています。

そして、もう一つ。

コツコツと自分一人で続けていくことは本当に大変なことだと思います(私にとっては特に)が、老師がいらっしゃり、諸先輩方がいらっしゃり、ともに歩む道友がいるからこそ続けていけることだとも感じています。

 

禅と出会ったことで、今携わっているドリームマップについても、それぞれの人生を深く味わうきっかけとして活用できるのではないか、と、より深く、その意義やドリームマップというきっかけを多くの方に提供する役割としての在り方に気づかせていただく日々です。

 

これからも続く長い道を、皆様にご指導いただきながら歩んでいければと考えております。

 

ご縁に感謝して。

  合掌 夢遊(名古屋支部) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

posted by | 21:50 | 名古屋支部 | comments(0) | - |
座禅一年生の歩み

シリーズ「女性と禅」 第1回

人間禅女性部で毎年発刊している「あけぼの」から、禅の修行に関する随筆を抜粋してみました。
禅の修行は実際にやってみないとわからないことが多く、また専門用語も多く出てきますが、どのような思いで修行しているのかをお汲み取りいただければ幸いです。

 

人はそれぞれに道のりを刻み、此処にいると思います。

キャリア教育の分野で以前から親交のあった夢遊禅子からのご縁で、私は昨年4月末初めて名古屋支部の摂心会に参加しました。

面談の際に総裁老師より『絶対樹と相対樹に観る人間形成』についてのお話を伺い「あらゆる事象に当てはまる!まさに!」と、とても感銘を受けました。

それは、座禅という新たな扉を開き歩み出る私を後押ししましたし、総裁老師著書『坐禅の効用』にも示される、参禅弁道と日常の数息感による坐の行、この両輪の大切さを肝に銘じることにつながっています。

また仕事の展開を考慮する際の観点にもなっており、思考・行動の確認とこれからの変化をもたらす大いなる智慧として私の中でずっと息づいていくことでしょう。

 

「本来の面目如何?」と問われて約一年を迎えようとしている昨今、参禅会や諸先輩方々の所作を通じ改めて「知らないと知るは大違い」「知っているとできるも大違い」ということを遭遇する事象・言葉の意味の重さと深さも含めしみじみ味わっています。

礼拝を例にしても、初めは形を教えて頂きまねをすることしかできませんが、心と想いの込められた老師の礼拝する姿を目の当たりにしてその意義に感じ入ると、自分なりの三昧で臨むようになります。

毎日の一日一炷香の大切さは聞いて知ってはいるけれど、行を継続したものにしか感じることができない効用なので、身に付くまでできるには至りません。

「命を懸けて参ぜよ!」との老師のお言葉に、一生懸命はしているけれど、命がけを体現するとは?と、まだまだ未知の感覚を前に茫然となります。

反面自分の無知があからさまになることで、好奇心のエネルギーが湧いてくることも感じます。

 

一つの公案に長らく向き合い工夫三昧するうちに「ん!?」と気づきが降りてきて、現実の出来事を捉えるときの理解に結びついて心がすっきりすると、もっと深くその公案の言わんとするところを感じ取りたいという想いが湧いてくるのです。

 

先の名古屋支部摂心会では金剛庵老師から「一畝之地、三蛇九鼠(いっぽしち さんじゃきゅうそ)の心中」という興味深いお話を頂き、岐阜座禅会洞戸摂心会にては総裁老師より、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を深く味わう機会がありました。

知らないことを知る楽しさ、知るを腹落ちさせる清々しさ、師家在りきによって味わえる貴重な学びは、人間禅ならではのことだと思います。

もちろん修行をされてきた諸先輩方々のひたむきな姿や所作の伝授、お気遣いある言葉がけからも多くの刺激と教えられることが沢山あり、感嘆し感謝するばかりです。

 

私は、子ども・学生のキャリア教育や企業等の人材育成に関わる研修講師、また、着付けの講師等を主な仕事としています。

名古屋モード学園にて7年前から美容系の学生たちを対象とした着物着付け授業を担当してきました。

2時間×14コマで検定課題は、[15分で着物と名古屋帯を自分で着装]です。

単に着る技術を教えても40名全員が検定をクリアできません。

できるまでとことん繰り返すことと、集中すること、ゴールに向かう意思を持つこと、弱音を吐かない心を養うことが大切です。

サイエンスとスピリッツ、ここも『絶対樹と相対樹』の話が当てはまり、大いに納得する学生の事例が毎年存在します。

私の座禅修業は始まったばかりで、道眼、道力を養う道のりは厳しく果てしなく続くと思われます。

ですが新しい扉の先を進んでいくことで、未知の力を発揮する自分自身に気づく瞬間があり、それはこの先の人生をまだまだ豊かに楽しめる!という可能性に満ちた道のりだとも感じられるのです。

ご縁ある皆様方からの学びを、社会にてさらに活かすことのできる自分づくりを目指し、歩み続けたいと思います。

  白蓮(名古屋支部) (あけぼの第25号より抜粋)#女性部

 

posted by | 23:44 | 名古屋支部 | comments(0) | - |
「一如、共育ち、一如」

胎児、嬰児のまぶしい姿

未だことばを発しない光の玉

赤子たちも、この世の修行に臨んでいる

 

母体の生命力から生まれるホルモン分泌物は

おかあさんを外と内の別ないところへいざない、

臍を通じて 産道を進もう嬰児を、見えぬ手でたすける

 

胞衣(えな)と赤子、母はいっしょ 抱き抱かれて、初乳を食む

自と他とのさかいなしの光りのなかで

 

DNAとRNAの情報のおかげだけでは足らない

お産の知恵にまなぼう

 

へその緒をゆわくとき…が有る

母の頭に血がのぼらぬようねむろう…

赤子と一緒…どう眠ろう

 

おかあさんの安寧はおいしいおっぱいの味

赤子はおっぱいがおいしくないと直ぐわかる

…おっぱいは血液そのもの…

 

…おいしくない味を拒んで、あかちゃんのだ液が変化し…おっぱいはとまってしまう

 

言葉ではない赤ちゃんの表現をわかろうとする周囲のおとなたちや

お母さんの安心や気付きそのものでおっぱいはおいしくなってゆく

 

これからいのちを授かり、育てよう、未来のおかあさんをどうにかして

神聖なお産の場で守ってあげたいと思う。

人と人のつながりの実感が若いお母さんも育ちゆくように、

 

 

世の中の

マニュアルには書かれてないお祝いのときがある

 

乳離れ…赤ちゃんとお母さんが互いの自立を確かめ合うとき、おっぱいから離れてだいじょうぶだ!

 

最近、座右の銘のように、ある治療家のおかあさんと赤ちゃんのセミナー記録文、それからユニークなある物理学者の著書を読み進め、

また実母より聞かされた、むかしの知恵話とをひとつにし、子育ての経験がないのに恐縮ではございますが、

 

お産の道と誕生の道が本来ひとつ、で、

 

たいせつなおっぱいが育ててくれた繋がりの実感は

子、母、父の道のあらたなスタートになると考えてみる。

 

子どもたちには、そうして育てられた感性をちからに繋がる道を進んでいって欲しい。

 

起きてくる事象への反省の気持ちで書かせていただきました。

 

瀧口清韻(中央支部) #女性部

posted by | 07:00 | 中央支部 | comments(0) | - |
心に残る言葉

私達の内面にある欲望や感情は形もなく、目には見えないものです。

表現された言葉によって、感じ取ったり洞察したりします。

言葉の出会いによって、その人の人生が変わることもあります。

 

一つは、

 

〈女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるはなおうるわし〉

 

これは、アメリカの詩人ホイットマンの詩です。

自由な形式で自然や民衆の生活などを歌い、アメリカ民主主義の代表詩人と云われています。(1819-1892)

若い女性は美しいが、老いたる女性は更に美しいという詩です。

若い女性が美しいのは、天然自然の美。

うるわしを漢字に当てると「麗しい」となるでしょう。

それに対して、老いたるは なおうるわし のうるわしは「美し」が相応しいと言われています。

麗しは生まれついての瑞瑞しい美しさ、老いたるはの美しさは自己丹誠によって智慧や感性が豊かになり、その豊かさから来る内面的な美しさではないでしょうか。

若い時には、若さならではの花がありますが、年老いてから老いの花を感じる事は中々難しいことであります。

 

歌人の斎藤史の歌に

 

〈ぐじやぐじやのおじやなん ( * ) を朝餉とし何で残生が美しかろう〉

                   ― 『風翩翻』 (* 原文のまま

 

という歌がありますが、年を取ると視力や聴覚が落ちてゆくし、皺が出来たり、物忘れが多くなり体形も崩れていきます。

しかし外見は美しくはないが奥行きのある素朴な味わいがこの歌から感じ取れます。

たった一度きりの人生を生きていく上で、愚直であっても何か一道に向かって修養を続けていく人は、美しい老いの花へ近づいているのではないでしょうか。

それは日常の生活の中で培われるもので、純粋に感動し、感激し、そして今日より明日と希望を持って生きる人であります。

 

人は皆、明日のことはわからず?死?と背中合わせに生きているのが現実であり、だからこそ目標をもって一日一日を精一杯生きて行きたいものです。

二つ目は 貪瞋痴 ( とんじんち ) ですがこれは仏教語であります。

私たち人間に、根本的に備わっている三つの煩悩で、理想に向かって生きようとする心身を害する三毒とも言われています。

私は人間禅に入門して50年ほどになりますが、この言葉に出会ったのは入門してまだ西も東も分からない頃でした。

先師の如々庵老師のご提唱を聴聞し、私達の心身がこの貪瞋癡の三毒に侵されていることに気づき大きなショックを受けた事を思い出しています。

 

( とん ) とはむさぼりの事。

好ましい対象に対する強い執着、激しい欲求、またそれを起こさせる心理作用の事です。

貪欲とか貪愛なども同様の意義をもちます。

人間の欲望というものは、放っておくと切りのないもの。

例えば、お金や財産は無いよりは有る方がいいと思いますが足る事を知らないで、もっともっとと執着することは身の毒になるということです。

「財産を多く持っていない人が貧しいのではなく、多く欲しがる人が貧しい」という筬言もあります。

貪愛も自分の心情に合う好ましい対象だからといって強く執着したり、激しい欲望やむさぼりの心を起こすと人身を迷わせることになると説かれています。

三毒の中でもこの貪愛は特に厄介なもので「往生のさはりの中に貪愛に過ぎたるはなし」と言われています。

往生とは死後のことではなく、日常を心安らかに生きることです。

貪欲に縛られてもがいていることを餓鬼道とも言います。

 

( じん ) とは激しく怒ること。

気に入らないものに腹を立てる。

嫌がる。

不快なものを遠ざける。

自分の言い分が通らないと怒る。

自分より優れている者を妬んだり恨んだりと、気づかないうちに修羅の世界にいることがあります。

日常生活の中で怒ってはいけないと頭では分かっていても、ふとしたことで湧いてくるのが怒りです。

このような小さな怒りは、姿勢を正して大きく深呼吸する事で、心を落ち着け冷静になることが出来ます。

しかし人間が生きている限り喜怒哀楽は無くなるものではなく、怒らなければならない時は、落雷の如く怒ることも大切だと先師はしばしばおっしゃられていました。

感情的ではなく、慈愛のこもった怒りは、後も残らずカラリとしています。

この様な怒り方は、怒られた方も怒った方も気持ちの良いものでしょう。

私達の日常生活は、戦後特に便利になりました。

その反面、移り変わりが激しく、また情報も目まぐるしい程多くなっています。

そんな中で、時間のゆとりのない人、生活にゆとりのない人、心にゆとりがなくなり、イライラしたり、むかつく人が多くなっています。

家庭内に於いても些細なことで腹を立ててしまいがちですが、お互いの人格と違いを認め合い、相手を思いやる慈悲で暮らして行きたいものです。

 

( ち ) とは愚痴のこと。

言っても仕方のないことを何時迄もグチグチと言って嘆くことです。

私も時々、もう返らざる過去のことを悔やんだり、叶わないことを思って心を曇らせネガティブになることがありますが恥ずかしいことです。

癡にはもっと深い意味があると思います。

それは真理を理解する心を持たない無智な事です。

真理とは真の道理(まことのどうり)のことで、「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて涼しかりけり」という古歌にもあります様に、この宇宙の大生命大自然の法則は誰の仕業でありましょうか?

誰の為していることなのでしょうか?

 

お釈迦様は或る時の説法で、「一切が燃えている」と言われました。

人間の持つ貪瞋癡が燃えていると言われたのです。

油断して清浄心を磨くことを怠けていると、過剰に貪欲になったり、憎しみや妬みなどの感情を燃やしたり、道理を知ろうとしない愚かな感情に支配され、危ない状態になることを戒めておられるのであります。

私達人間は誰でも生まれてくる時は、平等に純粋無垢に生まれてくるものです。

赤ん坊を見れば分かるように、あるがままに何の計らいもなく素直な心を持って生まれてきます。

ところが、成長してくるにつれて、世の中のさまざまな雑事に汚染され、貪瞋癡の三毒に犯されてくるものです。この三毒に燃えていることに早く気付き、何物にも執われない智慧を養って行く事が肝要であります。

私もこの貪瞋癡の言葉に出会って、修行の継続が大切であることを痛感したのであります。

合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

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“花と石”

庭の福寿草が雪間にほころび初めた頃、見知らぬ人から一通の封書が届いたのは十年ほど前のことでした。

中には黄ばんだ古い新聞の切り抜きと、一枚の便箋に隙間なく書かれ、癌の手術をくり返えしたが完治せず、今は末期の苦しい闘病中で ( さき ) が短いこと、新聞の切り抜きの記事に、ながい間、心が癒やされて来たことのお礼などが書かれていました。

裏打ちされたぼろぼろの新聞の切り抜きを見ると、見覚えがあり、私が昭和五十年頃、北海道歌人会賞をいただいた直後に、北海道新聞の文芸欄に請われ、「花と石」という題で随筆を書いたことがありました。

何を書いたのかすっかり忘れていましたが、切り抜きを判読すると、「花と石」に象徴した人生観が書かれており、移り変って行く世の中に純粋に生きる人間を花にたとえ、不動のものを石にたとえた未熟な文章でしたが、その人が読んでくれて保存していたようですが、医師に宣告され最後の身辺整理に送ってくれたのでしょう。

 

この度、「あけぼの」にのせるテーマを前記とは関係なく「花と石」と漠然と決めていたのでその偶然に驚いています。

 

 “花”

私たちの日常生活は、急激に科学が発達し、経済生活も豊かになりましたが、「衣食住足りて空虚を知る」というアンバランスに悩まされている人が多いと聞きます。

戦前、戦後とは別次元の情報化のスピーディな日常に、ストレスや欲求不満に心身共にすり減りそうな日々を送っています。

その心の空しさを満たし、永遠の 生命 ( いのち ) を求め、真の幸福を暗中模索しているのが現代の私たちではないでしょうか?

 

寂かに坐禅を組み、自分の心中に分け入って見ると、仏にもなり、凡夫にもなり、花にもなり、石にもなる、なんとも定義しようのない不思議な存在が私たち人間であることに気づきます。

能楽を大成した世阿弥は「時分の花とは若い時の花であり、まことの花は修練、修養によって得られた花のこと」と云われ、「住するところなきをまず花と知るべし」とも言われています。

つまり、現状にとどまらず修練をつづけていくことが花であり、更には何ものにも執らわれない清浄心が花であります。

 

思い起こすと、先師の如々庵芳賀洞然老師は、石狩道場並びに新潟道場建設のために、茶掛けの一行物を沢山ご揮毫されました。

一気に三十枚もご揮毫される時もあり、老師の気迫に、手伝いを命じられた私たちは緊張の連続でしたが、時折老師のお好きな句を書き終えた時など、その句の意を細やかにご説明して下さり、それが楽しみでもありました。

 

〖 百花為誰開 〗  百花

( ひゃっか ) ( た ) が ( ため ) にか ( ひら ) く

 

春ともなると百花はなぜ色とりどりに開き、百鳥は何のために ( たえ ) なる声をはりあげて歌うのであろうか。

生物学的にいえば種族保存のためというでしょう。

しかし花や鳥は、そうした「種族保存」のためになどということを少しも意識していない。

むろん自分の幸福のためなどとも考えていない。

ただ内から盛りあがってくる生命力にもよおされ、つきあげられ、咲かずにおれなくて咲き、歌わずにおれなくて歌い、本然の自性をおのずから流露させているだけのことである。

また花や鳥には、人を楽しませてやろうとか、特定の誰のためにしてやろうとかの意識もない。

花や鳥には、自らの美しい色香や妙なる音色を誇る気持もなく、自らの本然の性のままに開いて、自らも満足し、他をも喜ばせ、しかもいささかもその功を誇ることもない花の在り方、生き方を説いて下さいました。

 

“花”は私たち修行者の在り方を象徴したものであります。

自利しようの、利他しようのとの意識もなく、ただそうせずにはおれなくて、誰彼の別なく、縁に応じて慈悲を施し、しかもその功を誇ることのない在り方、生き方を示している句であり、ふたたび三たび味わい、身につけていきたいと思います。

 

 “石”

禅語としての「石」は多くの場合 知識的な認識や常識を離れ、何物にも執われない高次の自由な心の活動を指しています。

京都の竜安寺の石庭は草木を一切使わず渦巻く白砂に大小十五箇の岩石を配した枯山水ですが、なん度訪れても飽きることのない奥深さを感じます。

一つ一つの石がそれぞれの個性を持ち、己を誇るでもなく卑下するでもなく、黙然としながら大自然をいぶきしています。

寒熱に耐え悠然と動じないのも石であり、庭園などに趣きを添え、観る人の心を和らげてくれるのも石でありますが、大自然と渾然一体となった人間の高次の心境を拓すのも石であります。

 

耕雲庵老大師の『句津籠』を拝読していたら、十五句ほどの石の句があります。

その内から五句ほど抄いてみました。

 

    石 ( かそ ) く若葉洩る日に育つべし

    打水や庭石個々の光あり

    寂然と幽石坐る梅雨の庭

    石庭の石黙々と秋時雨 (竜安寺)

    処得て石の据りや霜ばしら

 

上記のような句を拝読すると、石を詠んでいるように見えて、たんなる無機質の石ではなく、純粋な人間性を象徴する石の姿が生き生きと見えてきます。

〇新緑の若葉より洩るる日の光りは爽やかで清浄そのもの、その自然の恵みを受けて育っていく石、

〇打水に、今迄目立たなかった石たちが個性を発起し生き生きと働き出す姿、また

〇寂然不動の幽石の高次元の境涯でしょうか?

〇石庭の石のそれぞれが本然の自性を発揮しながら調和のとれた黙。

〇石を含めた一切の万物がみな その所を得、おのがじしの自性を表わしながら寂光浄土をあらわしています。

私たち人間も同じで背骨がしっかり立っていると、さまざまの困難に出あっても耐えることが出来ます。

平素は石のように目立たぬ存在であっても、難局に会ってはじめてその力量を発揮することの出来る人間力を示唆していると思います。

また、俳界において前人未踏の境地を開いたと云われる芭蕉の句にも“岩”の句があり魅かれます。

 

     ( しずか ) さや岩にしみいる蝉の声

知らない人がないくらい人口に膾炙された句ですが若い時に味わったときより、年を経て味わった時の方が、すこぶる格調の高い趣きが伝って来ます。

寂然不動たる本体の世界に、つまり、黙然の岩に、蝉の声がしみいってくると。

蝉の声には何の作意もなく、中からつきあげてくるものでひたすら鳴いているが七日ばかりのいのちでありましょう。

ここには、生々流転の流行と寂然不動の不易が調和し、大自然の寂光浄土を感じさせてくれます。

俳句や短歌を詠むには、上手によむ技よりも、作品以前の心田を耕し、心を錬磨することがより大切であります。

心田の手入れを怠ればすぐに雑草がはびこりますが、手入れを怠らず土壌を豊かにしていきたいものであります。

合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

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一道に命を懸ける

* 明日あると思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは (親鸞聖人)

 

災害は忘れた頃にやってくると言いますが、平成23年3月11日の東日本大震災の猛威は生涯忘れることが出来ません。
テレビや新聞に報道された現地の状況は、これが現実なのかと眼を疑うばかりの恐ろしさと悲惨なものでありました。

 

ひたひたと増す水勢はまるで巨大な怪物のように暴れまわり一瞬にして家を破壊し、人も車も財産もすべて呑み込んでしまいました。
親を失った子、子を失った親、最愛の者を失った人達の悲痛の深さは計り知れません。
また、幼稚園に孫を迎えに行った祖母が、不意の増水に閉じ込められ危機一髪のところで車から脱出し、幼い孫をその父親に渡した途端に力尽きて濁流に呑まれました。
その時「バンザイ、バンザイ」と手をあげて流されていったそうです。
後日その息子さんは目の前を流されていく母を助けることが出来なかったことを悔い、声を殺して慟哭している様子が放映されていました。
祖母は命がけで守った孫を、その父親に無事渡すことが出来て、心の底から「バンザイ、バンザイ」と喜びの声を発したのでしょう。
濁流に呑まれながら「助けて!!」と叫んでいたら、残された息子さんは、もっともっと苦しみ自分を責めていたことでしょう。

 

人間の本音とは思考するゆとりもない切羽詰まったところから無心に発せられるものであり、流されながら叫んだ「バンザイ」は真実の声であります。
これで良かったと自らに納得し、我が身を捨てて孫を救った菩薩さまであります。

 

◇ 諸行は無常なり ◇

 

あの3月11日の災害から7年の歳月が流れ、街の地形も人々の生活も一変してしまいました。

 

方丈記(鴨長明)の冒頭に、
「ゆく河の流れは絶えずしてしかも本(もと)の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく止どまりたる例(ためし)なし。世の中にある人の栖(すみか)とてまたかくの如し」
とありますが、万物は常に生滅変化して定まることがなく、一切の有為の法は生滅変流して常住することがない。
諸行は無常でまことに儚いうたかたのようだと。
私たちの存在もまた、時の推移と環境と共に移り変わっていくものであり、あらゆる現象は変化して止むことが無いのであります。

 

大乗・涅槃経巻14に説かれている『雪山(せつせん)童子(どうし)』の一章が思い起こされますが、若かった釈迦が、ヒマラヤ山脈で難行苦行の修行をしていた頃のことです。
童子の道心が本物かどうかを試すため、帝釈天が羅刹(食人鬼)に姿を変えて『雪山偈(せっせんげ)』の前半の二句を唱えます。
「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)・是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)」と。
人間の存在を含め、作られたものは全て無常であり、生じては滅して行くことを本性とすると。
和訳すると、「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ」となります。
長い間難行苦行に身も心も疲れ切った童子は、ふとこの言葉に耳を傾けます。
まわりを見ても誰もいない。
童子は、声のした方に向かい、残りの二句を是非お聞かせ下さいと伏して頼みます。
するとどこからか羅刹の声がして「俺は今すごく腹がへっている。残りの二句を訓える代わりにお前の命を貰うぞ!」と言います。
童子は残りの二句を聞くことが出来るなら、喜んでこの身を差し上げましょうと約束します。
命を捨ててまで体得したかった残りの二句とは、「生滅(しょうめつ)・滅巳(めつい)・寂滅(じゃくめつ)為(い)楽(らく)」であります。

 

作られたものは、全て無常であり、生じては滅して行くことを本性とする。
これに続く言葉として、生滅する物がなくなり静まっていることが安らぎであると。
和訳では「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔(え)ひもせず」となります。
帝釈天は、童子の堅固な道心に感じ入り、羅刹に身を投じようとした童子を空中に受け止め、地上に安置して敬礼したというお話です。

 

私たちが自己として認識されるものも、それに執着すれば苦悩の元であります。
坐禅の修行によって心が静まり、寂然不動の境涯を手に入れることが出来れば、煩悩の炎や迷いも無くなり究極の安らぎを得ることが出来るということであります。

 

◇ 念念正念の力 ◇

 

先年上野博物館に於いて、白隠禅師の画絵や書を拝観する機会があり、太々として額面から溢れんばかりの「南無地獄大菩薩」の書に圧倒されて来ました。
国内ばかりでなく、海外でも親しまれ、多くの人々に膾炙されています。
その名高い白隠禅師の師匠であります正受老人(道鏡慧端禅師)の逸話があります。

 

正受老人は名声や財は求めず、人里離れた山奥に住み、ただひたすら仏道を保っておりました。
30歳から70歳になるまで、正念の工夫を絶やさないよう聖胎長養を続けていました。
正念の不断相続に努め自分の心を観察しようと決めます。
いつ心に隙が出来るか油断の無いようにとそれだけに集中して35歳の頃から続けてようやく70歳近くになり少し出来るようになって来たと述懐しています。

 

正受老人が63歳の時、飯山の里に狼の群れが出て多くの人が負傷するという事件がありました。
宝永年間の初めに村の人が山で狼の子を見つけ可愛らしかったので、拾って来て家で飼っていた所、犬に噛み殺されてしまったのです。
それ以来毎晩のように、狼の群れが村を襲い、垣根を破って家の中まで入り、人間の子供を襲うようになり、村人達は夕方から門を閉ざして怖れていました。
この話を聞いた正受老人は、村はずれにある狼の集まる墓場に行って、およそ7日7晩ずっと坐禅を続けました。
狼達は、正受老人が坐禅している所へ近づき、喉のあたりをクンクン嗅いだり耳に息を吹きかけたりしたのですが、寂然不動で微動だにせず正念の工夫を続けたのです。
その時ほんのチラッとでも恐ろしいとか、嫌だなという念を起したら、ガブリとやられたかも知れません。
正受老人の命を懸けた修行の厳しさに思わず寒毛卓堅しました。

 

◇ 今を生きる ◇

 

一念一念を正念で生きることは、まさに今を生きることであり、一道に命を懸けることでありましょう。

この度、ピョンチャン冬季五輪フィギアスケートで金メダルに輝いた羽生結弦選手の熱演に感激の涙を流した人も少なくないと思います。
昨年11月に右足首の靭帯損傷の大けがから復帰しましたが、まだ完治したわけではなく痛みを抑える強い薬を打って競技に臨んだといいます。
この薬は下手をすると脚の感覚が鈍り跳べなくなるだけでなく、怪我の危険もあり、もしものことがあれば選手生命を失うというギリギリの選択ということでありました。
演技を終えた羽生選手は、ひざまずいて右足首を撫で、良く頑張ってくれたと感謝していました。
氷上では、人間技とも思えないような4回転ジャンプは、0.6秒か0.7秒と言われる瞬間の技です。
少しでも気持ちが揺れたり迷いが出たら氷に叩きつけられてしまいます。
羽生選手の演技のひとコマひとコマが正念であり、正念を相続することに命を懸けて取り組んで来た事が伝わってきます。

 

今、当面していることに没頭する事が、今を生きるであります。
私たちは修行に修行を重ねなければ、そう簡単に出来ることではありません。
こんな正受老人の歌があります。

 

* さしあたることのみ思え人はただ帰らぬ昨日まだこぬ明日

 

人はただ今の差し当る事だけに集中しなさい。
もう昨日は帰って来ない。
明日もまだ来ていない。
という意であります。
少々の苦しさや悲しい事があっても、今日一日の辛抱だと思えば耐えることができます。
子育てや、親の介護、会社勤務、そして禅の修行も長い一生と思うから辛くなります。
本気でやる本物は飽きないものです。
今日一日今日一日と続けて行くことが出来て、日々新しい人生が開けて行くと思います。
合掌

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 17:42 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
己にもゆる


◎ 老いらくの己にもゆるや桃の酒

 

耕雲庵老大師の俳句の中にこのような一句があります。
この句をはじめて拝誦した時は、深い真意も分らず、句の醸し出す華やかな雰囲気に魅かれて愛唱していましたが、年齢を重ねるごとに味わいふかくなってきました。

 

「己にもゆる」とは、自主的な禅者の生き方をさりげなく示唆されておられ、主人公である自己が時には居眠りしていたり、意気消沈していないか、自らに警策を加え「よーし、燃えているぞ」と自らに返事をし、老いて猶たゆみなく己を錬磨されているお姿が目に浮かびます。

 

己にもゆる人とは、何か物事をなすにも自らが燃えて、そのエネルギーを周囲にも分け与えられる人であり、他人から言われて仕事をする、命令を待って動き出すのではなく、言われる前に自分から率先してやり、周囲の模範となるような能動性や積極性に富んでいる人のことを指していると思います。

しかし、人間にはいろいろのタイプの人がいます。

 

火を近づけると燃え上がる可燃性の人
火を近づけても燃えない不燃性の人
自分自らが燃える自燃性の人

 

このように自然にもえ上がる人もいますが、まわりからエネルギーを与えられても、少しも燃え上がらない人もいます。
仕事はもちろんのこと、禅の修行でも、趣味でも、それを持続するためにはエネルギーが必要であります。

 

では不燃性の人が、自燃性に人になるにはどうすればよいのでしょうか?
諺に“好きこそものの上手なれ” とありますように、今自分が打ち込んでいるものを「好き」になることです。
自分自身を励まし、そのことに燃え上がることで、エネルギーが湧き上がって来ます。
目前のことを嫌嫌やるより、全力を打ち込んで取組めば、おのずと好きになり道はひらけるものです。

 

他から見て大変な苦労も、自ら燃えてやれば楽しみになり、自信が生まれ、達成感が湧き喜びにもなりましょう。

 

禅の修行にしても、折角ご縁を得て入門してもいつの間にか初心を忘れ、些細なことを問題にして修行を中断したり、のらりくらりと修行していては勿体ないことです。
人生は「無常迅速」で歳月は人を待たずであります。
只今のこの一事の「己にもえる」ことです。
自我の愛着を根からたち切り、他に依って動かされることなく、幻を追うて生きている現状を打破して、ほんとうの自己を育てていくのが禅の修行であります。

 

「正法の禅」の人間禅は、人間形成を主とし、新しい時代に合わせて、全ての志ある人々に開放され、家庭や社会生活を営みながらの修行であります。
時には都合がつかずどうしても出来ないときもあるでしょうが、ほそぼそでも続けることが大切であり、この修行に命をかけることです。
継続することによって、智慧が磨かれ、命の尊さ、生きる力が湧いてきて、秩序立った生活、礼節も信もそして正義も確立されるものです。

 

人生で一番大事なことは、自分がやると決めた一つのことをやり続けることです。

 

私もなんとか八十路の坂を越えましたが、人間として生きることの尊さと法恩のありがたさに感謝の日々を送っています。

合掌
蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

posted by | 16:30 | 栃木座禅会 | comments(0) | - |
木を見て森を見ず

古い諺には不思議な力と味わいがあります。

この諺は森の中の一本一本の木を見て、大きな森全体を見ないということですが、その奥にある意は、物事を見る場合には末梢のことにとらわれず、本筋を見よという教訓であります。

 

ある時、歌人の集会で女性は「木を見て森を見ず」と指摘されたことがありました。

失敗や欠点をズカリと言われるより、物事に譬えた諺で言われた方が心の底から納得することがあります。

標題の言葉も 何時の時代に、誰が言ったのかわかりませんが、切り捨てるような教訓ではなく、言葉の奥に包み込むような思いやりが感じられます。

 

わたしたちは、ともすると小さな感情に囚われて大局を見失ってしまいますが、それを戒めた諺でありましょう。

森には曲りくねった松もあれば、真直ぐに伸びている杉もあり、桜もあれば大きな柏の木もある。

落葉樹もあれば常緑樹もあり、葉には裏もあり表もあります。

木はそれぞれの個性を持ちながら、譲り合って精一杯生きてをり、それが自然の相であります。

 

わたしたちの社会には、さまざまな出来事があります。

自分の意にかなったり、かなわなかったり、人に誉められたり ( けな )されたり、苦しみ悩んだり、喜ばされたり、一喜一憂して生きているものですが、それらはみな小さな自我に囚われているからでありましょう。

小さな自我を否定し、無限の慈悲と智慧を磨きながら、それぞれの個性や人格を認めあい、互に譲りあって仲よく生きること、それが社会という大きな森であるという解釈もできます。

 

 

私たち女性には視野の狭いところがあるのではないでしょうか。

末梢のことにとらわれて本筋が見えなくなり、折角ご縁があって禅に入門しても、途中で挫けてしまい、修行を中断してしまうことは残念なことです。

 

禅語に「 八風吹 ( はっぷうふけども ) 不動 ( どうぜず ) 天辺 ( てんぺんの ) ( つき ) 」という語があります。

八風とは人の心を動揺させるさまざまことを風に譬えたもので、 ( り ) ( すい ) ( き ) ( よ ) ( しょう ) ( き ) ( く ) ( らく )  のことを言います。

 

( り ) ( すい )  ・・・・・意にかなうこと と 意に反すること。

( き ) ( よ )  ・・・・・人を悪く言いたてること と 賞讃すること。

( しょう ) ( き ) ・・・・・ 面前で ( ほ ) めること と 誹謗すること。(そしること)

( く ) ( らく )  ・・・・・ 身心を悩ますこと と 喜ばすこと。

 

人間の社会にはこのような風が常に吹き荒れているようですが動揺せず、いかなる困難にあっても、いささかも挫けないで、正法に安住し、泰然自寂としていることであります。

私たちも限られた命を大切にして、一歩でも半歩でもこのような境涯に近づきたいものであります。 

蓮昌庵 堀井妙泉 (栃木座禅会)#女性部

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